2015-02
魂のめざめー10
~ 病床に付き添う ~
死に逝く人たちとかかわり始めた頃、わたしは死をめぐるこの国の文化の異常さにあきれた。
死の床にある病人は、ウソと偽善に囲まれ、親しい語らいを家族や近親者とすることもなかった。
私はただ黙って病人のそばで平静にしているだけでよかった。
それだけで、死にゆく人たちからそばにいてくれるようにと頼まれることが多かった。
私がそばにいると、心が落ち着き安心すると言われた。
そして自分の話を分かってくれるのはあなただけだとも言われた。
病人の家族はパニックに陥り、悲しみや混乱、怒りや苦しみなどを私のところに持ってきたが、私がしたのは彼らに心をひらき続けることだけだった。
病状の変化に対して感情的になったり否定しないように注意した。
魂のレベルでの体験があったおかげで、病床での役目をはたせたのかもしれない。
死にゆく人とかかわるようになってすぐに気付いたのは、彼らにとって役立つのは、私の神秘的な能力や体験ではなく、私の魂の存在そのものだった。
死につつある人のそばで本当に心から平静でいることには感染力があるようだ。
私が自我ではなく魂の中に安らいでいるので、そばにいる人の意識が魂の視野の広さに引きつけられ、いつのまにか黙って魂の腕に抱かれるようになっていく。
私はこのプロセスが相手に起きているのを自分でも感じることが多かった。
私が病室に入っていくと、死にかけている人のベッドの周りに人が集まって、それぞれが不安におののいている。
こうした状況では、ある種の雰囲気を引き出すのが役に立つことを私は学んだ。
「不安がまったくない」という雰囲気をかもし出すようにつとめるのだ。
つい最近のことだが、わたしは旧知の94歳のお婆さんを見舞った。
トイレで脳梗塞を起こし、身動きできないまま家族に発見されるまで閉じこめられていたのだが、冷たくなりかけた彼女の身体を家族が必死に温めて救急車を呼んで大学付属病院に搬送した。
ナースセンター横にある病室に入ると、彼女は酸素チューブをつけたまま目を閉じて少し荒い息をしている。
私は彼女の顔に向かって語りかけた。
「もう大丈夫だ。私が来たからね。安心だ」
昏睡状態にあったはずのお婆さんは、私が病室にやってきたことに気づいていた。
身体を少し震わせ、口をわずかに動かした。
「おばあちゃん、大丈夫、頑張らなくていいよ。何も怖くはないからね。おばあちゃん、苦しむことはまったくない。おばあちゃんが私のいうことをちゃんと耳で聞いていることを知っているから、私の言うおりにすればいいよ。」
また、おばあちゃんの身体と口が動いた。
「そのうちにあたたかい光が見えてくる、懐かしい人の姿や顔が見えたら、だいじょうぶ。怖がらないで、光のなかに入っていけばいいんだ。おばあちゃんはどこも痛くないし、苦しくもないからね」
私には昏睡状態のおばあちゃんが聞き耳を立てているのが見えた。
死にゆく人に対して私が耳元にささやく姿は日常の出来事であれば奇異に感じられるだろうが、肉親の死を覚悟した人たちにとってはそうではない。
「おばあちゃんに会えてよかった、ありがとう」
精神分析医のエリザベス・キューブラー・ロス女史は、病院で死んだ人の体験について多くの著作がある。
死期を前にした人びとが体験する五つの段階―否定、怒り、交渉、絶望、容認(またはあきらめ)-に関する著作「死ぬ瞬間」は有名だ。
五つの段階はこの順番通りに起きないかもしれないし、区別がはっきりしない場合もあるが、一般的にこれは正解だ。
死の床にある人の問題を解決してあげようとか、何かを教えよう、またはその状況を変えようと試みたことがあるが、そんな時、この五つの段階に繰り返し直面して苦労した。
私が自分の考える”理想的な死“を相手に押し付けようとしたり、こうでなければならないと執着心を発揮したときには、必ず裏目に出た。
反対に、相手に愛情をもって接し、何も相手から望まなければ、わたしは彼らにとって安全な避難場所となる。
私が自分自身の考えや感情―悲しみや同情、嫌悪感や恐れーや、相手に反応したくなる誘惑などを自覚して、意識を澄ませていられたときには、魂の静寂をもたらすことができた。
さらに、そこで起きていることはそれでよいのだという感覚も生まれた。
この内面の落ち着きは岩のように堅固だった。
まわりの人たちが自分の恐れをそれにぶつけて試しているのが感じられた。
しかし同時に、自分のなかにある、似たような境地がこの落着きに共感しているようだった。
自我の流れや抵抗のベールの背後には誰もが直感的な知恵をもっているが、その部分が共感しているようだった。
こうした死の床で人びとの心が開いていくのを見るのは素晴らしい。
それはまるで、苦しみにとらわれている人たちが、やがて暗闇から出てくるのがわかっていて、わたしは陽光の中で彼らを待っていたかのようだ。
それが実現すると、その人たちの精神をおおっていた雲が晴れ、死の重いくびきがはずれる。
“こんなひどいことが起こるなんて”という感覚が、調和の感覚に取って代わられ、悲しみと肉体的な苦痛によって調和が深められる。
信じられないかもしれないが、絶望的な苦しみが死を目前にして喜びに変わるのを私は目撃したことがある。
悲惨な死を前にしたら、そんなことは不可能だと言っていた人たちが、心を開いて、通常の執着心を超えた境地に安らぐことを学んだら、そうなった。
こうした変化を目の当たりに見ると、奇跡に思える。
死につつある人のそばにいるとき、私たちは死との間に距離をおこうとする自分の微妙な態度に注意しなければならない。
こうした分離は苦しんでいる人にとって罠となる。
死に対する自身の恐怖から自分を守るために、死につつある人を”他者”と見て、相手との間に安全な距離を設けようとする衝動がしばしば生まれる。
相手も自分も仮の肉体に宿る魂なのだと自覚して相手との区別をなくすと、真理が病室に入ってくるための道ができ、死につつある人と共に至福の境地を味わう可能性が生まれる。
このことは、ヤコブ病で若くして死んだK君のときに、実感したことだ。
死につつある人の多くは、意識の入り口が狭められて肉体だけになってしまう。
不安が強かったり苦痛が激しかったりするために、自分がガン患者であるとか、心臓が悪いとか、肝臓障害があるということに朝から晩まで心を奪われ、それしか考えられない。
家族や看護人も病状だけに目を奪われる傾向に陥ることが多く、死につつある人がどんな人間なのかに関心がなくなってしまう。
これは非常に残念な傾向であり、死につつある人の病気が本人の人間性よりも重要になってしまって、本当に気の毒だ。
こうした狭い観点に陥らないようにすることが重要だ。
死につつある人は、病床に横たわる以上の存在であり、肉体以上の存在なのだ。
相手にその思いが伝われば伝わるほど、そして相手に死がやってきたときに、そのことを覚えていられればいられるほど、それだけ苦しみが減るだろう。
死につつある人が魂であるということを認識すればするほど、まわりが病気に関心を集中させて患者の意識を残さないでおこうとする方向に進んでいくときであっても、最後まで意識をはっきりと残しておくことができる。
大勢の死にゆく人びとの最後を看取った、前出の精神科医、エリザベス・キューブラ・ロスの著作から引用しよう。
『以前、死に関する合宿を開いたことがある。これには大勢の人が参加した。
ある朝、三人の子をもつ三十八歳になる看護婦で転移ガンをもつ女性が、参加者に心理テストをした。
ガンの手術をした後で彼女を病室に見舞う場面を想像して、自分がどのように感じるかを書きだすように指示し、出てきた答えを黒板に書きだした。
答えのなかには、誰もが考える「かわいそう」や「かなしい」のほかに、「神様に腹が立つ」というようなものも混じっていた。
答えを全部書き終わった後で、そこに書き出された感情は確かに彼女の見舞客たちが感じたものと同じだと認めてから、彼女はこう言った。
「私がどんなに孤独だったかがこれでお分かりでしょう? みんな、私の病状に反応するのに忙しくて、誰も私のことをちゃんと見ていなかったんです」』
役割というのはどれもそうだが、”死につつある人“という役もその人の全体を含むだけの余裕はない。
前のブログに書いた、余命一週間と医師から宣告されながら七か月間闘病した後に死を受け入れて、自分の葬儀で私に弔辞を読むことを依頼したNさんと交わした会話で、今回のブログを終了しよう。
(Nさん)「社長(当時の私は会社を経営していたので)、わたしはこの病気で死ぬことを受け入れました。
娘と一緒に葬儀の手はずも整えましたし、好きなカサブランカの花と一緒に写真も撮りました。
社長には言葉に尽くせないほど感謝しています。社長に最後のお願いがあるんですが、いいでしょうか?
私の死を少し早めていただけませんか?」
私は彼女の言葉にびっくりした。
私はちょっと考えてから、こう答えた。
「今のあなたは四六時中死ぬ準備に忙しすぎたんですね。一時間のうち十分ほど死ぬことにして、残りの時間はほかのことをしてみませんか」
Nさんは私の言わんとすることを理解して、微笑んだ。
その後、二人で瞑想をし、瞑想の中で周囲の音に耳を傾けた。
看護婦が廊下を歩く音、窓の外に居るらしい子供たちの話し声、病室におかれた目覚まし時計の音、病院の上を飛んでいく飛行機の騒音などを聞き、顔に触れるそよ風や窓から差し込む柔らかな陽光を感じ取った。
一緒に〈今この瞬間〉に意識を向けた結果、死のドラマは色あせてしまった。
その時、私たちがただ生きていたことに突然、気づいた。
何の役割も決め事もなく、二つの魂が一緒に安らいでいた。
まるで時間が止まったようだ。
また、しばらく話してから私は病室を後にした。
それから十日あまり、Nさんは家族と私に見守られて、安らかに息を引き取った。
死は私たちにとって最大の難関であると同時に、魂として成長する絶好の機会でもある。
意識的に生きる努力をし、自我ではなく自然に従うことによって、私たちはこの最後の旅に備えることができる。
そうすれば、私たちは肉体の死を超えて魂の旅における次の段階に目を向けることになり、それがほかの者への手本となり、自分自身の最良の友となるだろう。
優雅な傘
冷え性の私は実家に余っているというホットカーペットを取りに行きました。
晩酌を終えてご機嫌の父が、
『傘やっとるわ』と言ってきました。
父が携わっている和傘の展示会をしいのき迎賓館で開催しているとのことでした。
旧ブログでも書きましたが私の父は表具屋さんです。
掛け軸を作ったり、屏風を作ったり和紙を取り扱う仕事です。
和傘の技術を伝承するために表具屋さんの人達もお勉強をしているそうです。
暴風雨の日でしたが、空き時間があったので久しぶりにしいのき迎賓館にでかけました。
美しいものを観るという行為は人間の心と身体にとても良いことだと改めて感じました。
2/15日曜日まで開催しています。
こんな暴風雨の日にはあのような優雅で美しい和傘はとてもさして歩けませんが、『一本欲しいなあ』と思いました。
みなさまもお時間がありましたらお出かけください。
みくら音楽工房・ボーカル科講師
大場佳恵
魂のめざめ-9
~ 死ぬ準備 ~
ここでは、死に対してどのように準備したらよいかについて検討してみたい。
一瞬一瞬を意識的に生きることや瞑想することなどは、精神や心を落ち着かせ、死というチャレンジを迎える心の準備をするのに効果的な方法だ。
けれども死の瞬間は本当に恐ろしいかもしれない。
この問題をもっと深く考えるために、最近テレビで見た、ゴムボートでの急流下りをたとえに使おう。
最も危険な早瀬を乗り切るために、プロは岩や急流や滝に遭遇しても慌てず落ち着いて漕げるように厳しい訓練を受ける。
自分が死ぬところを想像するのと「ああ、いま死んでいるんだ」と思って落ち着いていられるのとは別だ。
平静な心でそうした急流に遭遇するには、水(無常)の感覚に慣れていなくてはならない。
カルロス・カスタネダの師、ドンファンが教えたように、いつも〈死を片方の肩に乗せておく〉ことが大切になる。
(注:カルロス・カスタネダはアメリカ先住民の呪術師ドンファンから教えられたことを数冊の本に著し、六十年代の反体制運動や以後のニューエージ思想に大きな影響を与えた)。
死を忘れず、あらゆる瞬間にその準備をせよという人生の知恵は、秋の落ち葉のように象徴的なメッセージとして現れることもある。
越後の良寛和尚が死に臨んで詠んだ、「うらを見せ おもてを見せて 散るもみじ」は、まさにそのことだ。
わたしは旅先で野垂れ死にすることを本望としているので、西行法師のように、「願わくば 花の下にて春死なん その如月の 望月のころ」と詠みたいのだが、わたしには和歌の心得がない。
もし間違って、誰かがわたしに墓石のようなものを立ててくれたら、そこに以下のように刻んでもらおうと思う。
「あなたが今生きているように、私もかつて生きていた。
わたしが今死んでいるように、あなたも死ぬだろう。
死を友にして生きることは何とすばらしいことか。」
死ぬ準備をすることは現在の人生をおろそかにすることだと多くの人が誤解している。
しかしこれは真実ではない。
死の床にある人と過ごしている時、自分が生きていることを最も痛切に自覚するということを、わたしは死にゆく人々とかかわる中で繰り返し何度も経験した。
人間の喜劇を観察することに長けていたフランスの小説家マルセル・プルーストは、世界的な災害が起こって自分がもうすぐ死ぬとわかったら人々はどのようにふるまうかという新聞社の質問に答えて、わたしと同じことを言っている。
~ 提案されたような形で私たちが死ぬとわかっていたら、人生が突然素晴らしく感じられると思う。
どれだけ多くの仕事や旅行や恋や勉強が私たちの目から隠れていることか。
私たちの怠慢さによって見えなくされていることか。
怠慢さゆえに、明日を確信して、人はものごとを先に延ばしている。
しかし、こうしたことがどれも二度とできないという可能性があったとしたら、人生は再びどんなに素晴らしくなることだろう。
ああ、大災害が今回だけないとしたら、ぜひともルーブル美術館の新しい展示を見るだろうし、大好きな女性の足元にひざまずくだろうし、インドへの旅に出るだろう。
大災害が起こらないのだとしたら、そんなことはどれもやらない。
また普通の生活に戻って、怠慢さが欲望をつぶしていく。
とはいうものの、今の人生を愛するのに大災害を必要とするのはおかしい。
自分が人間であり、今夕にも死がやって来るかもしれないと考えるだけで十分なはずだ。~
プルーストが言っているように、死を遠ざけていると、現在の人生を存分に生きることができないが、反対に、いつ死ぬか分からないと思って生きていると充実した生き方ができる。
死にも愛にも言えることだが、自分と神秘の境が消えると、自我のくびきがゆるみ、魂が姿をあらわす。
わたしはこれまでの人生において、死を受け入れるために、努力してきた。
自分をできるだけ軽くして、この神秘に落ち着いて接することができるように、これからも多くのものを捨てなければならない。
死んだ人も含めて、ほかの人間との確執をなくさなければならない。
人との関係に対して、自分が心の中で抱いているこだわりを捨てることがなによりも大切だ。
ここで自分にすべき極めて重大な質問は、「この問題(こだわり)を抱えたままで死にたいかどうか」だろう。
ほとんどの場合、その答えはノーだ。
死の眼鏡を通すと、自我に由来する個々の人生ドラマを全体的な視野から見ることができるようになる。
それは素晴らしいことだ。
死の瞬間まで抱えているべき問題というのは実はほとんどない。
そこで自分がまだこだわっている問題を徹底的に調べ上げて、穏やかな死を迎える準備をする。
人との問題を片付けるだけではなく、法律上の問題や医療面、財政面などで身辺の整理をしておくことも重要だ。
延命装置に関する自分の希望を明らかにして、回復の見込みがないのに生命維持装置に無理やりつなぎとめておくことがないようにし、臓器移植を希望する場合はそうした意思を明らかにしておくことが望ましいだろう。
遺書を書くことは人によっては難しいようだ。
遺書を書かないかぎり死ぬことはないという迷信があるからだ。
こうした非現実的な思考は、あとに残された者に迷惑をかける。
わたしが昔経営していた会社の元顧問弁護士が話してくれたことがあるが、遺産相続争いで家族や友人がバラバラになってしまうケースが多々あるとのこと。
自分が死んだ後に残る人たちのためにできるだけのことをするのが私たちの責任だ。
こうした物質的な問題を片付けることは、精神修養の一部であり、世俗的なものを最終的に手放すことを意味する。
どこで死にたいかというのもまた、重要な選択となる。
死の準備のなかでも、これは最も重要な決断の一つといえる。
できれば危機的な状況が生まれる前に、この選択をしておきたいものだ。
適切な医療措置が得られることを最大目的として病院で死にたいか、それとも自宅で死にたいのか。
最後まで意識的に生きて、魂としての観点をできるだけもって死ぬにはどうしたらよいのか。
わたしが人の死に関わった経験で、今でも印象深く思い出される事例がある。
もう二十年ほど前の話だ。
余命二週間と医師から宣告された子宮がん患者のご婦人が、ご主人を通じてわたしに会いたいと言ってきた。
病室に入るなり、彼女は消え入りそうな声で「わたしはもう死ぬのでしょうか?」と、聞いてきたので、わたしは「まだやり残したことが有るのなら、死ぬことは考えないで生きましょう」とこたえた。
それから七か月余り、彼女はいったん元気を取り戻したのだが、やがて昏睡状態になり、病院のベッドで死んだ。
わたしは毎週土曜日の午後、彼女の病室に通い、成人したばかりの長女と、発達障害の妹と、ご主人の三人を交えて死についての話をした。
半年を過ぎるころになると彼女は死をしっかりと受け入れて、自分が死んだらわたしに葬儀で弔辞を読んでほしいと依頼した。
快諾して、「わたしも、あとで逝きますから」と言うと、彼女は私を見ながら「ゆっくりときてくださいね」とこたえた。
病院にいる間に彼女は長女と一緒に外出して、自分の葬儀一式を寺の住職に頼み、写真屋に行ってカサブランカの白い花に囲まれた遺影を写し、春に死んだときと秋に死んだときの二つの布団と寝間着を用意した。
さらに、お金を貸してから顔を出さなくなっていた親戚に電話をかけて、借金を棒引きにし、わたしにご主人の友人になってほしいと頼んだ。
わたしが関わった七か月の間に、彼女は確実に死に向かいながら、その瞳は生き生きとした輝きを宿すようになっていた。
彼女は、昏睡状態のさなかに起き上がって担当医を呼び、「一切の延命治療を拒否します。しかし、先生から見て痛みが激しそうであれば、痛み止めだけは処方してください」とそう告げてから、再び昏睡状態に戻った。
わたしがご主人からの知らせで病室に駆けつけると、彼女は眼を閉じたまま荒い息をしていた。
手を握ると、彼女はかすかにわたしの手を握り返し、やがて身体をがくがくと痙攣させてから逝った。
自分がどこで死にたいのかを伝えておくことと、死ぬ時にどの程度の意識レベルを望むかを決めることも重要だ。
もちろん死ぬ時には予期しないことがたくさん起きるので、どんなことが起こり、なにが必要で、いつ死が訪れるかを正確に予測することはできないが、自分の希望をまわりに知らせておくことはできる。
しかし、実はこれは簡単なことではない。
過去二十年間に痛みの管理は大きな進歩をとげたが、まだ手探り状態だ。
医師のほとんどは肉体のケアにのみ関心があって、死に逝くひとの意識の質にはほとんど無関心なので、死の床で観察される苦しみのうち、どの程度が麻薬の攻撃から自分の意思を守ろうとする患者自身の戦いの結果なのかを私たち自身が判断しなくてはならない。
肉体の苦しみをなくそうとする熱意のあまり、医師たちは患者が自分の死を自分の目でしっかりと見つめることの重要性を見過ごし、その結果、別の種類の苦しみを生みだしているのではないだろうか。
物質的な世界観に基づく医療界にあって、医療関係者は当然ながら自分たちが見たり触ったり計測できるものに注意を向ける。
世間の多くの人が信じているように、医師たちも患者の肉体の死がその人の存在の終わりだと信じているので、死や死のプロセスそのものにはほとんど関心がないし、それが未来の生まれ変わりに影響があるなどとも思っていない。
したがって、自分を魂の観点から見ようと決心している人間としては、自分の肉体の終わりにあったって自分の意識を守る役目を医師に任せることはできない。
最も賢明な解決策は投薬の自己管理だろう。
これまでの研究によれば、患者が自分で鎮痛剤の投薬量をコントロールした場合は投薬量が減ったばかりか、苦しみも減ったという。
最近の研究によると、出産の際に自分で鎮痛剤の量をコントロールできる器具を与えられた女性は、医師から鎮痛剤を与えられた女性に比べて、半分の量で済ませた。
これには二つの要因が挙げられている。
自己管理の場合は、痛みに応じて投薬量を調整できたが、医師の投薬の場合は、もしものことを考えて多めに与えがちなことが一つ。
もう一つは、自分で痛みをコントロールできると分かったら、痛みへの恐れが大幅に減少したことだ。
死につつある人を対象に同じような調査をしたら、やはり自己管理する方が投薬量は減るだろうと、わたしは確信する。
痛み止めを医師に要請してから実際に受け取るまでに時間があるので、患者の多くは自分の痛みを予期し、過大評価する傾向にあるが、それは自分で自分の痛みをコントロールできないからだ。
痛みの管理に関しては、できるだけ自己管理をさせてくれるよう医師に要請するのが賢明だ。
死の瞬間における自分の意識状態を他の人間の手にまかせるというのは実に恐ろしいことだといえる。
特に、その相手の人生観や価値観が自分と大きく異なる場合はなおさらだ。
コントロールの問題として同じく重要なのは、人は自分の死の瞬間を選ぶ権利があるのかどうかということだ。
現在のところ、この権利は認められていない。
私の意見では、病気のために思考能力が衰えている人や、痛みがひどくて適切な判断能力に欠ける人を除いて、死にゆく人たちは自分の心身の状態や希望に関してしっかりした判断能力をもっている。
自分がいつどのように死ぬかを選ぶ権利を奪うことは、この人たちから知恵を奪うことであり、そうした知恵の価値を認めないことを意味する。
チベットのような精神文化の発達した地域では、この国とは違って、自分の死ぬ時を選ぶ権利が疑問視されたことはない。
チベットでは昔から年老いたラマ僧は自分の肉体を脱ぎ捨てる儀式に人びとを招待する。
自分が死ぬことに何の不安もないからだ。
決められた時間が来ると、ラマ僧は三回ぐるっとまわってから瞑想し、やがて心臓と呼吸を止める。
これは自殺だろうか。
それとも不道徳な行為だろうか。
または単に、機(死ぬ時)が熟したことを知っているだけなのか。
それは個人が判断することで、他人や政府が判断すべきことではない。
私たちは自分に正直に尋ねなくてはならない。
「できるだけ長く生きることが、
常にもっとも賢明なことなのか」を。
金沢妄想奇譚-7
このブログは、わたしの妄想である。
随筆でもなければ、もちろん小説でもない。
わたしという実在者と日常的に関わっている人たちや、かつて関わった人たちがこのブログを読んで、その内容が、わたしに関する事実だと勘違いしないようにと念を押しておこう。
しかし、妄想ではあっても時には物語のように読めたり、あるいは書評にみえるかもしれない。
ブログの読者は、わたしの記事をどのように読んでもらってもかまわない。
夏目漱石やカフカの小説に正しい解釈が存在しないように、好きな様に読んでいただきたい。
ただし、冒頭に述べたように、このブログはわたしの妄想だ。
そのことを、頭の片隅において読んでいただければ、あとは自由に解釈していただいて結構です。
ところで、妄想と空想の違いとはなんだろうか?
妄想という言葉には何かしら病的な影や、鬱屈したままに現実ではありえない想像をかたくなに保持する響きがある。
それに比べて空想は、決して現実ではありえない(であろう)という認識を、あらかじめ知りつつ思い描く健全な想像行為であり、想像の根拠のなさが特徴かもしれない。
いづれにしても、妄想も空想も、想像(イメージ)のひとつの形態にちがいない。
さらに、幻想と妄想の違いを明確に定義することはできない、と、わたしは勝手にそう思っている。
もちろん、幻想は多くの人に共有される可能性があるが、妄想は自分以外の誰にも理解されることはないだろう。
しかし、幻想も妄想も、信じる者にとっては真実として認識される点では同じだ。
~ 近くのミスドで、村上春樹の英訳された短篇集の「象の消失」をブツブツと呟きながら読んでいたら、たまたま近くのテーブルに座った二人の上品なご婦人の会話が耳の奥にストンと落ちてきた。
若くて美しい娘のような年代の女性が、わたしが紫婦人と名づけた(紫色のカーディガンを羽織っていたので)女性に「非常識な頼みごと」をして、そのことを紫夫人の年来の友人とおぼしき紅いご婦人(紅いフレームのめがねをかけていたので)に憤りながら話していた。
そして、わたしがトイレから戻ると、二人のご婦人はミスドから立ち去った後だった。
二人の話がわたしの耳朶(じだ)に絡んで、螺旋状に渦巻きながら耳の奥に落ちてくるには、それなりのワケがある。
紫夫人の夫が起こした車の追突事故を、夫は妻(紫夫人)に「追突された」と報告しながら、後になって赤信号で停車待していた夫が車をバックさせて、後ろに停車していた若い女性の車に「逆追突」していたと訂正したのだ。
そのような話が世間によく有るのか無いのかは別にして、若い女性は同じ会社の直属の部下ではないが、社内では役職も(夫は50代後半の営業部長)もキャリアも上の夫が黙って修理代を会社で直接本人に手渡せば事足りたかもしれない。
しかし、被害者の若い女性は、部長から「修理代を家内から直接もらって欲しい」と頼まれたのだ。
紫夫人が、自宅に現れた(これまでに出会ったことのない美しい)若い女性に修理代を手渡した時、その彼女が婦人に何やら「非常識な頼みゴト」をしてきたというのだ。
そして、ついさっきまで、友人と思しき紅いご婦人に向かって、苛立ちながら「非常識な女が非常識な頼みごとをしてきた」と、憤りながらくどいていた。
わたしの空気頭にヘリウムガスがいきなり充填されて、首から上がゴム風船のようにミスドの喫煙室の天井あたり漂い始め、話しあう二人のご婦人と、小説を読む振りをしながら聞き耳を立てている私自身を見下ろしていたのだが、・・・わたしがトイレから戻ると、ご婦人は消え、妄想のゴム風船も消失していたのだ。
夫と美しい若い女性が不倫関係にあって、何かを精算するために逆追突事故を夫が敢えて起こしたのか?
これでは、あまりに通俗的すぎて、わたしの妄想癖を刺激しない。
それともこの事故を契機にして、夫が若い女性に近づこうと図った?
この想像は不自然すぎて、わたしを妄想へと導かない。
熟年夫婦の危機を乗り切るために、夫が若い女性を妻に合わせることにより、夫婦の間に存在し始めたクライシス(危機)を払拭しようと意図した・・・?
ある出来事が誰かの妄想になる条件とは、まず出来事の意外性であり、妄想する主体(この場合はわたし)が、ある程度まで体験を共有する、あるいはまた、想像可能な出来事であることが必須条件だ。
少なくとも、わたしの妄想が発動される条件でもある。
わたしは還暦を過ぎて、これから老人の仲間入りを余儀なくされたとば口に立っている。
もはや中年期は過ぎたが、そうかと言って世間で言う老人(65才以上)でもない。
わたしは、これまで成熟や老成などという言葉とは無縁に生きてきたので、いつでも宙ぶらりんな状態のまま世界を眺めるようにして今日まで来た。
一人娘に孫が三人。やがて孫の成長に押し出されるようにして老いてゆき、そんなに遠くない将来、寒天棒に押し出されるように、寒天のようなわたしの命はニュルリと終わるだろう。
わたしに誇れるものが有るとすれば、それは「妄想力」であり、三人の孫の成長を素直に「喜ぶ力」だ。
ミスドで仄聞(そくぶん)した二人のご婦人の会話と声のトーンが久しく眠っていたわたしの妄想力を刺激して、「中年クライシス」を連想させたのだが、もちろん確かな根拠などない。
分析心理学者のユングなら、どのような妄想を働かせるのだろう?
日本にユング心理学をひろめた故、河合隼雄なら中年期に不意に訪れるクライシスは成熟への過程へと導く(個性化のプロセス)と、言うかもしれない。
妄想は新たな妄想を呼び込み、まるで物語のように展開していく可能性を秘めている。
暴力が暴力を連鎖させて、戦争に導く引き金となるように、妄想はひょっとして、これまで誰も書くことのできなかった「物語」を生み出す原動力になるかもしれない。
先ほど幻想と妄想には明確な定義も境界線も無いと書いたが、つい最近、吉本隆明の「共同幻想論」を角川ソフィア文庫で四十数年ぶりに読みなおしたばかりだ。
背表紙には、「国家は共同の幻想である。風俗や宗教や法もまた共同の幻想である。もっと名づけようもない形で、習慣や民族や、土俗的信仰がからんで長い年月につくりあげた精神の慣性も、共同の幻想である」と、著作から引用されている。
若い世代の方には、吉本隆明は、小説家の、よしもとばななの父として認知されているかもしれないが、彼はまごうことなき思想家であり、すぐれた詩人だ。
わたしがまだ高校生の時に出版された「共同幻想論」は、全学連(全国学生自治会連合の略)の活動家たちにバイブルのように読まれたと記憶する。
文庫本の解説を小説家の中上健次が書いている。
その一部を、332pから引用しよう。
「1968年、丁度六十年台末、この『共同幻想論』は街頭での一群の人々による暴力の噴出と共に共同幻想としての国家を露出させ、きたるべき事態を予告し、何にも増して国家とは性なのだと予言した。性が対幻想として読まれ共同幻想に転移していくという見ようによっては十全にアジア的(農耕的)なこの書物の出現は歴史的言えばほどなく起こる三島由紀夫の割腹自決と共に六十年代から七十年代初めにかけて最も大きな事件である~」
中上健次の解説の副題は「性としての国家」である。
村上春樹の小説「ノルウェイの森」の時代背景は、さきの中上健次が述べた六十年代末から七十年」の初めだ。
村上春樹の小説の多くが1970年(三島由紀夫の割腹事件が起きた年)代を軸に展開されている。
ここでは、村上作品についての書評をあえて書かないが、「共同幻想論」が出版された当時の熱狂が解説する中上健次の語り口によくあらわれている。
わたしは、中上健次のほとんどの小説を読んだが、代表作の「枯木灘」を含めて彼の作品をあまり評価しない。
解説文にも違和感を感じたが、精神分析学の父とも呼ばれるフロイトの説を生半可に理解したのではないのかという危惧を覚えた。
引用文中の「国家とは性なのだ」の文言に対しては大いに疑問を感じるのだが、ここではその詳細な論を述べない。
話がまた、斬進的に横滑りしたようだ。
ミスドの喫煙室での英訳された村上春樹の「象の消滅」を読む進むうちに、わたしの内に眠っていた妄想発動装置が思いがけず起動されたにちがいない。
閑散とした喫煙室で、タバコをくゆらせ、さてそろそろ帰ろうかという段になって、3人の若い女性がお盆に大量のドーナツを持って現れ、わたしの斜め前のテーブルに座り込んだ。
立ち上がりざま、また彼女たちの会話が耳に飛び込んできた。
一端、妄想回路が遮断されたわたしの回路が猛烈な勢いで再起動してしまった。
魂のめざめー8
~ 死の瞬間 ~
死の瞬間は、死にゆく人と死後の世界のあいだにある“ベール”だ。
私は一時的に自我の構造が消滅する体外離脱体験を今までに数多く繰り返してきたが、死の体験が少しでもそれに似たところがあるとすると、これまで私たちが現実を生きるために使ってきた観念上の地図が死の瞬間に消滅すると思って間違いないだろう。
この消滅は最初ゆっくりと進み、やがて速度を増して、最終的に消滅したら
障壁を突き抜けて魂の次元に入る。
当然ながら、死ぬ瞬間をできるだけ明瞭な意識のままで迎えたいと人は望む。
死ぬ時には、愛と喜びと感謝の気持ちに満たされて安心して穏やかに死にたいと願う。
臨死体験をした人の多くが、その時に感じたリアルな気持ちをはっきりと覚えていると報告している。
死後、光のあるほうに進んでいくと、そこにはすでに亡くなった家族や親戚と再会して、喜びをわかちあう体験をする。
私が初めて16歳の時に起きた体外離脱体験は、私を恐怖と混乱の渦に投げ入れた。
自分の身体を斜め下に見ながら、しばらくは意識体のまま室内に漂い、やがて部屋の天井と家の屋根をすり抜けて一気に夜空を上昇した。
眼下に街路灯や旅館のネオンサインを見ながら、すさまじい速さで上昇していきながら、私は今、死につつあるのだと思った。
漆黒の闇に放たれた風船のように、あてどなく、孤独だった。
その後、みくら会でお話ししてきたように、私は体外離脱体験を重ね、(いまはもうしないが)、意識的に体外離脱することができるようになった。
それらの体験を通して、私の意識は次元が変わっても持ちこたえることが分かった。
私は生き続けるのだ。
結果がどうなるか分からなくても、何が起きようとも、どんなに多くの誤った概念が粉砕され、どんなに多くの恐ろしいことが起ころうとも、なにもつかまるものがなくても、すべてに身をまかせていればよいのだ、と知った。
そして私は生き続けるのだということが分かった。
私は体外離脱を何度も繰り返しながら、このことを学び、この事実をくりかえし確認することができた。
恍惚感を味わうと、形に対する執着がなくなる。
死が怖い理由の一つは、自我が“形”に執着することにある。
そうした体験や瞑想を通して、魂は肉体に存在しないし、肉体のなかだけに限られてもいないことを体験した。
肉体が死んでも意識は生き続けることを私は知っている。
これは単に私が頭で信じていることではなく、体験して学んだことだ。
死んだからといって、その瞬間に別人に変身するわけではない。ありのままの自分として死ぬのであって、それ以前よりも賢くなるわけでもなければ無知になるわけでもない。
私たちはそれぞれ自分がしたことの総和を抱えて、死の瞬間にのぞむ。
だからこそ、真理に目覚めて、身の回りの問題を片付け、後顧の憂いなく最後の目を閉じられる人間になるために、一刻も早く死への準備を始める必要がある。
自分がいつ死ぬかを知っている人は誰もいないので、一瞬一瞬、目覚めた意識で生きるように心がけたい。
瞑想しながら自分の呼吸を観察し、その呼吸がいつ止まるかもしれない、はかないものであることを自覚することから始める。
その自覚は私たちを恐れさせるというより、感覚を鋭敏にし、周りに注意を払うようにさせてくれる。
死の瞬間を怖がらず、素直に穏やかな死を迎えたいと思うなら、偉大な先人たちがどのように死と向き合ったかを知ることが役に立つ。
辞世の句や、臨終に際して残したことばをあげておこう。
うらを見せ 表を見せて 散るもみじ ~良寛
見舞いに来た恩師が、「冬休みにまた上京しますから、そのときまた参りましょう」と声をかけると、「その時分には、私は何になっていましょう、石にでもなっていましょうか」 ~樋口一葉
束縛があるからこそ私は飛べるのだ。
悲しみがあるからこそ高く舞い上がれるのだ。
逆境があるからこそ私は走れるのだ。
涙があるからこそ私は前に進めるのだ。 ~マハトマ・ガンジー 〔遺言詩〕
今日私たちの心を悩ますものがあれば、それは死の床にあっても私たちを悩ますだろう。
死ぬのはたやすいことではないので、あまり苦しまずに死を迎えるためにもできるだけ心を平静に保ち、思考力を失わないでおきたいものだ。
『人間らしい死に方』(河出書房)という本の中で著者シャーウイン・ヌーランドは、死の瞬間に訪れる肉体的および心理的苦痛を説明している。
血液の流れが止まり、心臓の筋肉が飢餓状態に陥り(自然のリズムが狂い、心室の繊維が攣縮(れんしゅく)してはげしくもがく)、筋肉への酸素供給が不足し、内臓の機能が停止し、生命維持機構が破壊される。
それと同時に、胸部が締め付けられ、まるで万力にはさまれたような強度の圧迫感があり、冷や汗、呼吸困難、ときに嘔吐などを体験し、しばしば耐え難い苦痛を感じる。
そこで問題は、穏やかな尊厳死を迎えたいとしたら、こうした苦痛に満ちた状況の中でどのような意識でいればよいのか、ということだ。
答えは、魂の意識にいることだ。
魂の意識にいることができれば、それだけ、肉体の死から一歩離れて、大いなる意識の視点からこの移行を観察することができる。
これは非常に難しいことだが、覚醒者たちの証言が示しているように、不可能なことではない。
どちらにしても、それが目指す方向である。
死の瞬間に魂の意識に入ることができればできるほど、その度合いに応じて、死ぬ時の動揺を静めることができる。
死のプロセスを助けてくれる人が多ければ多いほどよい。
昔なら、赤ん坊が生まれるときに助産婦を雇ったように、人が死ぬのを手伝うための資質や経験をもった人間に立ち会ってもらうことが賢明だ。
私たちの社会では、ほとんどの人が病院のベッドの上で真夜中に独りで死んでいくが、このことは極めて悲劇的なことだ。
これを例えれば、真夜中に明かりも地図もコンパスも持たせないで一艘のボートを海に押し出すのとあまり変わらない。
おまけに、たった独りの乗組員には何のアドバイスも与えないままだ。
こんなやり方は、古い精神文化を持つ国のやり方といかに異なることか。
たとえば、チベットの伝統では、僧侶や尼僧は人が死んでいく過程で道案内ができるように訓練されている。
死につつある人の喉の渇きや体の冷たさ、重い感覚や呼吸がないことなどに対応し、死につつある人がこうした現象に執着しないように導くための訓練を受けている。
そのために、次のように語りかける。
「土の元素が肉体を離れるにつれ、体が重く感じます。
水の元素が肉体を離れるにつれ、のどの渇きを感じるでしょう。
火の元素が離れるにつれて、体が冷たく感じます。
空気の元素が離れるにつれ、吐く息が吸う息よりも長くなります。
そうした兆候が今起きています。細かいことにこだわらないように。
こうした現象に執着しないように。どれも自然なことです。
あなたの意識を解放してあげましょう」
私たちはこうした現象に抵抗しないで明瞭な意識を持って立ち向かえる人間に変わることができる。
人生最後のこの状況はこれまでの人生体験と比べて強烈さの点で違っていても、
準備は同じである。
つまり、考えや感覚が一つ生まれるごとに素直にやさしい心で接し、反感をもったりしてその体験に執着することをせず、常に明瞭な意識に戻ることを心がけるのだ。
一瞬一瞬を最高に生きる生き方が、同時に、死ぬための最高の準備になるというのはありがたい。
また、自分がいずれ死ぬことをきちんと認めることが、現在を真に楽しく生きるための前提条件だと知って、これもありがたいと思う。
死とは神秘であり、自己変容の機会なのだと常日頃自覚して生きていくと、生きている瞬間が豊かで生きる力に満ちたものとなるが、死を否定して生きると、豊かさも生きる力も失われる。
ここでわたしの大好きな詩を引用しよう。
若さを保つことや善をなすことはやさしい
すべての卑劣なことから遠ざかっていることも
だが心臓の鼓動が衰えてもなお微笑むこと それは学ばれなくてはならない
それができる人は老いてはいない
彼はなお明るく燃える炎の中に立ち
その拳の力で世界の両極を曲げて
折り重ねることができる
死があそこに待っているのが見えるから
立ち止まったままでままでいるのはよそう
私たちは死に向かって歩いて行こう
私たちは死を追い払おう
死は特定の場所にいいるものではない
死はあらゆる小道に立っている
私たちが生を見捨てるやいなや
死は君の中にも私の中にも入り込む
ヘルマン・ヘッセ「人は成熟するに連れて若くなる」(岡田朝雄・訳)より
死とは実は、さなぎが蝶に変容するような現象であり、窮屈な靴を脱ぐようなものだ。
肉体という衣を纏った“魂”にとって、死こそ次なるステップへのプロセスに違いない。
お知らせ!みくらトークセッション
みなさん、こんにちは!
今日はみくら音楽工房企画、みくらトークセッションのお知らせです。
初めて参加を希望される方のために、みくらトークセッションについて少し説明させていただきます。
このホームページのブログ記事でお馴染みのラクジー師匠こと、恵蔵さんをゲスト講師に迎えて普段のレッスンとは違った切り口で音楽を捉えてみようという企画です。
トークセッションは、これまでに14回開催しました。
『トークセッション』と名づけているように、話はその日に集まったメンバーの方によって色々変わります。
話題は、心理学や哲学、あるいは古代史、文学など多方面に渡ります。
また、ラグジー師匠は三十年以上にわたって、五百人以上の精神的な障害者の方や、「息苦しく生きている人たち」と関わってきました。
これまでトークセッションに参加された方は、異口同音に、師匠のお話にカルチャーショックを受けたと言います。
また普段とは違う側面から音楽を捉えてみようという趣旨も含んでいます。
みくら音楽工房のホームページにラクジー師匠のブログが掲載されていますので、読んでみてください。
⚫︎『妄想忌憚』シリーズ
⚫︎『魂のめざめ』シリーズ
上記のブログ記事を参考にしてください。
今月のトークセッションの予定は、
⚫︎第15回 トークセッション
2月17日 火曜日
20:00〜22:00
※ 開催場所は、みくら音楽工房、大場までお問い合わせください。
その際に開催場所と参加費をお知らせします。
⚫︎第16回 トークセッション
2月26日 木曜日
13:00〜15:00
場所は金石みくら音楽工房です。
飲み物やお菓子など、お好きな物を持参してください。
● 参加希望の方は、大場までご連絡ください。
また、ご希望の曜日や時間帯などありましたらご連絡ください。
また、不明な点は、みくら音楽工房にお問い合わせください。
それではよろしくお願いいたします。
(*^_^*)
みくら音楽工房・ボーカル科講師
大場佳恵
魂のめざめー7
~ 死ぬ覚悟(その二) ~
人が死を内包し、死をまるごと内包し、それを心の中にやさしく抱き、それでも
生き続けることを拒否しないということは、とても言葉では説明できない。
(詩人・ライナー・マリア・リルケ)
死後何が起こるかというのは世界のすべての宗教にとっての中心的テーマであり、個人の神秘的な世界観の基礎をなす。
しかしだからといって、こうしたさまざまな宗教が到達した結論が同じというわけではない。
それぞれの文化において、死後の体験は自分たちの宗教のイメージや神話に従って解釈される。
文化によるこうした解釈の違いは、目が見えない人たちと象の話にたとえられよう。
巨大な動物を前にして、三人の目が見えない男たちが象の体をそれぞれ触って、言い争う。
「象は木のようなものだ」と足を触った男が言い、「いや違う。象は壁のようだ」と腹を触った男が言う。
「縄だ」と鼻を触った男が主張する。
三人とも同じ動物を触ったのだが、こうして言い争いはいつまでも続く。
神秘的な体験もこれと同じで、死後の体験を描写する際もご多分にもれない。
私たちが死んだ後にどうなるかをそれぞれの宗教が説明しようとしている。
チベット仏教のバルドー(中間界・中有)、キリスト教の天国と地獄、仏教でいう天上界など、これらは同じものを指している。
つまり、魂が死後に入る次元のことだ。
神秘主義の本では、私たちが見えない世界を言葉で表現する試みを描写するのに、月を指さす絵がよくつかわれている。
そこには、「月を指す指は、月ではない」の謎めいたフレーズが書かれている。
ここで指が象徴しているのは、私たちの理解を超えるものを表すために人間が使う言葉やイメージだと理解すればわかりやすい。
それと同じように、死後の体験を言葉で表現することは不可能でも、何らかの形で死後の世界が存在するという事実は確信をもって示せる。
人間の理性の理解を超えるものを理性で理解することはできない。
まさに死とは、こうした異なる現実のレベルを分ける境界線なのだ。
私たちは、みくら会で、瞑想体験などで自我の枠外に出て魂の観点から現実を観察することを学んだので、肉体があるままで死後の世界の神秘について考えることができるようになった。
これは無駄なこと、または矛盾したことに思えるかもしれないが、そうではない。
ただし、自分が理解できないものも素直に受け入れる態度があればのことだが。
冒頭にあげた詩人のリルケがこの点を見事に表現している。
人が死を内包し、死をまるごと内包し・・・、それを心の中にやさしく抱き、それでも生き続けることを拒否しないということは、とても言葉では説明できない。
それでも、死や死後の世界の神秘を意識しながら日常生活を送るようになると、物事を見る目が変わってくる。
今まで考えなかったような疑問がわいてくるだろう。
死が終わりでないとしたら、今日の私の生き方をそのためにどのように変えるべきなのか?
この終わりのない人生観を抱くとすると、私の期待や不安、悲しみや慰めはどのように変わるのだろうか?
何といっても、すべてが死で終結するという考えには一種の喜びがある。
ニヒリストの喜びかもしれないが、それでも白黒のはっきりした答えが好きなタイプの人には安心感を与えるし、肉体や精神以上のものとして生き続けるよりも、死んで土に返ると考えるほうが怖くないというタイプにも安らぎを与えるだろう。
カルマ(因縁の法則)や生まれ変わりが実際にあるとしたら、自分の行為が来世に影響を与えることを自覚して、果たして人はもっと意識的な生き方をするだろうか?
それとも、自分の性格を矯正するにも永遠の時間があるから、目標を達成するのも現世でなくてもよいと考えて、いい加減な生き方をするだろうか?
こうした問いかけが現在の生活にどういう影響を与えるかを確認していないと、単なる言葉の遊びで終わってしまう危険性がある。
“生まれ変わり”がそのよい例だ。
神秘的な生命観に同意するとしたら、生まれ変わりが実際に起こることは疑いの余地がないように思える。
だが、このことが今生きている私たちにどう関係するのだろうか?
私たちは”今、この瞬間に生きる“ことを学んでいるのだとしたら、未来の
人生について考えたり、過去生探求に興味を持って前世に自分がどんな人間だったかを調べたりすることにいったいそんな価値があるのか。
その答えは明らかだ。
現在の自分の行動がまわりに影響を与えるだけでなく、死後も存続する魂の意識に影響することが分かると、今真理に目覚めて、できるだけ賢く生きることの重要性がさらに明白になる。
死の瞬間にどのような意識状態にあったかが生まれ変わりの方向性に影響することは広く信じられている。
生まれ変わりを信じるかどうかに関係なく、こうした考え方を利用して、人生の幕を閉じるときにできるだけ穏やかで慈愛と分別に満ちた人間であるように努力することもできる。
そうすれば、もしこの神秘主義的な解釈が真理で、魂は私たちの生き方に基づいて来世を与えられるとしたら、大きな意味で私たちは成功したことになる。
そしてもし生まれ変わりがないとしても、少なくとも立派に生きて死んだことになる。
そうはいっても、自分の死に方を批判したり、自分がつい惰性的な人生を送って勇気や思いやりにかけていたからといって不安がったりしないことが大切だ。
死の床にある時に、自分が悟らないまま死んだら魂が地獄で苦しんだり動物に生まれ変わったりすると信じて、自分で自分を苦しめている善良な人たちに私は何人か出会ったことがある。
そうした気持ちは、死という、人生で一番大きなチャレンジに直面する時に役に立たないばかりでなく、正確ともいえない。
だいたい、ものごとを”正しくやろう”と頑張ったり、幸運な来世を願ったりするのは自我である。
自分の意識を変えることによって、死の質を変えることはできても、自分の生まれ変わりを自分で決定するわけではない。
それは魂の時間の中で起こるプロセスであり、到底自我には理解できるものではない。
釈迦がどのくらいの期間輪廻転生を繰り返しているのかと質問された時の逸話がある。
釈迦の答えはこうだった。
「水牛が一日に歩く距離を高さと幅と奥行きにした山を想像してほしい。
次に、百年に一度、絹のスカーフを口にはさんだ鳥が山の上を飛んで、スカーフが山頂にそっと触れるところを想像してほしい。そのスカーフが山を完全に削ってしまうだけの時間、私は輪廻転生をくりかえしてきたのだよ」
キリスト教文化圏においては、紀元三百年から六百年のあいだに、トレント会議、ニセア会議、コンスタンチノープル会議において生まれ変わりに関する部分が聖書から削除され、生まれ変わりに関してはいまだに意見の一致が見られないが、ここ数年間、西洋においても生まれ変わりの可能性を信じる人が増えてきた。
私とこれまで関わった人たちのなかで死んだ家族とコンタクトした不思議な体験を話してくれたことが少なからずある。
いまから十数年前の北イタリアのトリノで私が聞いた話だ。
それは当時の取引先の社長から招待を受けたレストランでのことである。
社長の叔母が死んだ後、寺院で大きな葬儀がおこなわれ、多くの親せきや友人たちが参列して悲しみを共にした。
カトリックの信者とは名ばかりで、神をほとんど信じていない叔母の棺は一面の赤いバラでおおわれていた。
葬儀の最後に車輪付きの台に乗せられた棺が運び出されて、妻を亡くした叔父と家族が座る最前列を通り過ぎたとき、突然車輪が動かなくなり、一本の赤いバラが棺から落ちて叔父の足元に転がった。
結婚記念日に愛の証として一本の赤いバラを贈りあう習慣があったのだ。
席を立つ時に、叔父はかがんでそのバラを拾い上げた。
帰りの車の中で誰かが、そのバラは叔母さんがあの世から送ったメッセージではないかと言ったら、誰もが同意した。
きわめて合理的な精神の持ち主として知られた叔父までもが、それに同意した。
目の前で奇跡が起こったのだと、車中のみんなが喜び、「どうすればこのバラを枯らせないでおけるか」が話題になった。
翌日から、直ちにあちこちに問い合わせの電話がかけられ、数日後、バラは
アイスボックスに入れて空港まで運ばれ、特別保存加工のために空輸された。
ガラス玉に入った液体の中に密封されて戻ってきたバラを叔父は暖炉の上に飾った。
だが残念なことに保存方法が不完全だったらしく、中の液体が少しずつ腐ってきて、数年後に叔父が再婚する頃には叔母の最後のメッセージは見るも無残な姿になってしまった。
ついに車庫の奥に移されたのを見て、甥である取引先の社長がガラス玉を貰い受けたのだという~。
私が彼のオフィスで机の上に置かれた大きなガラス玉を見たときの怪訝そうな表情を見て、そのわけを話しておきたいと思ったらしい。
「なぜ?無残な姿のガラス玉を?」あらためて私が問うと、彼は「物質的なものはすべていずれ消滅するという法則を忘れないためだ」と、答えた。
日本語ではそのことを“無常”というのだと説明すると、彼はバラのような真紅のワインを私のグラスに注ぎながら、“ムジョウ”とつぶやいた。
私は死後も魂が存続することを知っているので、愛する人の死を悲しんでいる人に対しては亡くなった人の魂に話しかけるようにすすめている。
これは慰めになるだけでなく、生きている人と亡くなった人の両方を助けることになる。
亡くなった人としても、自分がどこにいてどうやって先に行ったらよいのか、(または先に行くべきかどうか)がよく分からないことがあるからだ。
ほとんどの人は自我と自分を同一視して、自分の肉体や精神が自分だと思って生きているので、死んで初めて自分の魂と接触することになり、戸惑うことがよくある。
チベット仏教においては、他界した魂が中間界(バルト界)を進んで次に生まれ変わる手助けをするための特別の儀式が編み出されている。
私たちも、亡くなった人の魂を思い冥福を祈ることによって、このプロセスの手助けができる。
魂のめざめー6
~ 死ぬ覚悟(その一) ~
魂は決して生まれない。 魂は決して死なない。
時間が存在したことは無い。 終わりもはじめも夢である。
誕生もなければ、死もなければ、変化もない。
魂は永遠に存在する。 死がそれに触れることは決してない。
(インドの聖典『バガヴァッド・ギーター』より引用)
自分が単なる、肉体と精神以上のものであり、その両者を併せた自己像、つまり自我以上のものであることが理解できると、“死”を以前とはまったく違った目で見るようになる。
たとえ恐ろしい考えや不安な気持ちが起きても、以前ほどそれらを恐れなくなる。
自我の枠から一歩外に出て魂の意識に入れるようになると、自分というものが思考や感情以上のものであり、それらを体験する精神以上のものであることを悟る。
私たちは魂でもあるので、魂として死の神秘を見つめると、以前ほどの不安や恐怖は感じない。
私はものごとを過度に単純化するつもりはないし、自分が死に対して何の不安もない境地に達したというつもりもない。
ただ、これまで何度も死にゆく人々に関わるボランティアをしてきた経験からはっきりと言えることは、世間で当たり前とされているような死の恐怖や苦しみを味わうことなく死を迎えることが可能だということだ。
自分の死の瞬間を迎える心の準備を意識的に行い、死の準備を助けてくれる人々に支えられ、愛の心に満たされて最後の日々を過ごすことは可能だ。
人間とは何かという定義を拡大したうえで、死の瞬間に素直に向き合い、その後に起こることを受け入れる準備をすることができる。
死を隠さない
ホスピス運動の創始者である英国の女医シシリー・ソンダース、“死ぬ瞬間”の研究で有名な精神分析医エリザベス・キューブラ―ロス博士、などがパイオニア的な仕事をしてきたにもかかわらず、私たちの社会では死はいまだに”悪者“であり、嫌がられ、人の目から隠され、生きている人間から物理的にも精神的にもできるだけ切り離すようにされている。いったいそれ以外に、物質的な社会が物質的な存在の死を醜態や失敗と見なくてすむ方法があるだろうかと言わんばかりである。
死を否定するこうした態度のせいで、死の必然性を極端に恐れる脅迫症的な雰囲気が社会に生まれているが、同時にあらゆるタブーに共通するように、死に関する一種の魅惑も生まれている。
その良い例が、暴力に対する社会一般の執着であり、いじめによる自殺や、暴走車による犠牲者などという話題に対する社会の関心の強さである。
私たちが抑圧しようとするものに共通することだが、死の恐怖は目に見えないところで社会に大きな影響を与えている。
私たちの社会は若さを志向し死を否定する陰で、実は、死を素直に受け入れる社会よりも死を病的に恐れている。
私が育った昭和30年代には死はまだ街場の出来事であり、臨終とその儀礼も各家で行われていた。
もちろん、赤子が生まれる場所も日常生活が営まれる家の中であり、近所の助産婦が手伝いの女たちにテキパキと指示していた。
今のように、死も生も病院の中で管理される時代ではなかった。
私が初めて死を間近に感じたのは、私が幼稚園児の時であった。
友達の家の前にある道路で遊んでいるうちに雨が降りだしたのだが、幼い私たちはボール遊びに夢中になっていた。
そんな様子を見ていたひとりの老婆が私たちに、雨が降ると道路に沿った用水路の水かさが増えるから危ないので家に入って遊ぶようにと、きわめて強い口調で注意した。
私と友人は家の中で一時間ばかり遊び、雨が止んだのを確かめて、また外の道路に出たのだが、用水のそばには警察官が数人いて、そこに置かれた筵(むしろ)を取り囲むように立っていた。
やがてカメラを持った男が現れると、警察官が筵をまくり上げ、水死体になった老婆の写真を撮った。
私と友人に、ついさっき「用水の水かさが増えると危ない」と言った老婆が、水に濡れたまま目を閉じて横たわっていたのだ。
幼い私は、まったく動かない老婆の状態が死であることをよく理解できなかった。
ほんのわずかな時間で何がどう変わったのか?
この疑問が解けないことには、大人になれない、とそう思った。
その日から私は、近所で臨終やお通夜があると遺族に紛れて部屋の隅からたった今死につつある人や、白い布をかけられた死者の顔を覗き込んだ。
小学生になっても誰かが死んだと聞くと、一目散に駆けつけていく私を父は強く諌(いさ)めた。
「おまえは死人の顔を見てもこわくないのか?」、もう二度と葬式に行ってはいけないと申し渡された。
私が世間一般のいう死の概念を理解したのは、小学3年生の時だった。
ある日、街の大きな空き地に大きなテントが張られ、近所の子供たちと様子を見に行くとテントの中から金髪の美しい外人女性が現れた。
白雪姫のような真っ白な肌と、絵本でしか見たことのない金髪の若い女性を見て子供たちは興奮した。
彼女に手招きされてテントの中に入ると、祭壇らしき机の背後の壁に十字架がかけられていた。
アメリカ人の牧師一行がテントでキリスト教の布教活動を始めたのだ。
昭和30年代の子供たちには今のような遊び道具もなく、破れたズボンに継ぎはぎをしたままゴムの短靴を履いて空き地や田畑を駆け回っていた。
突然現れた大きなカーキ色のテントの中で、小さな聖書を読みながら、幻灯機によって映し出された天国と地獄の世界がリアルな臨場感を持って迫ってきた。
「人は死んでも違う世界で生きている。生きている時の行いによって天国か地獄に行く」というのは、本当だろうか?
私が16才になったある日の深夜、これまで、みくら会で幾度も語ってきたように、“体外離脱体験”が突然に始まった。
その状態や内容についてここでは詳しくは触れないが、その時の体験で垣間見た
“まるで死後の世界かともみえる異界”での見聞が、それまでの私の“死”に対する概念を一変させた。
それ以来、死に対する私の態度は完全に変化し、それが私の人生に及ぼした影響ははかりしれない。
現在の私に死の恐怖がまったくないとは言わないが、正直に言えば、死が以前ほど怖くはないということだ。
心が平安で調子が良い日には、死と生はどちらもほぼ同じくらい魅力的に思えるときがある。
三つの疑問
あらゆる宗教にそれぞれの形で死後の世界が存在するように、どの宗教も、死ぬ準備をすることが人生で最も重要な精神修養であるという点では意見が一致する。
自分の死と向き合う中で、私たちは自分に向かって次のように問いかけざるをえない。
「この肉体以上のものが存在するのだろうか?」、「もし存在するとしたら、それは何か?」、死が存在しなければ、私たちは無知のまま生きるよりほかにない。
死は魂を目覚めさせる役を果たし、避けようとしても避けられない要求を突き付けて、こころの成長を促す。
死の床にあるソクラテスが弟子から最後の教えを請われて、「死ぬ練習をせよ」と、言ったのは、まさにこういう理由からだ。死は私たちが癒される最後の段階で、私たちをさらに神に近づけてくれる。
六十才を超えた今に至るまで、幾人もの死に付き添ってきたわたしの経験からいうと、ほとんどの人が死に抱く疑問は基本的に次の三つだ。
一、これから死ぬというときにどうすればよいのか。
二、死ぬ瞬間に私はどうなるのか。
三、死んだ後、私はどうなるのか。
死に自ら向き合っている人も、家族の死に直面している人も、死につつある人と職業上で接する人も、この三つの点に関心があるようだ。
死ぬプロセスには問題ないが、死そのものが嫌だという人もいれば、死んでしまうのはかまわないが、死ぬ過程が嫌だという人もいる。
これで思い出すのはアメリカの映画監督兼喜劇俳優のウッデイ・アレンの「死ぬのはかまわん。ただ死ぬときそこにいたくないだけさ」というセリフだ。そして最後に、死の瞬間そのものに対する恐れがある。
つまり都合の悪い場所や心理状態にあって、穏やかな死が迎えられないのではないかという恐れだ。
弟子が禅僧に死後はどうなるのかと尋ねた話がある。
『禅僧は微笑んで「わしには分からん」と答えた。「なぜですか。あなたは禅僧ではありませんか」
「そうじゃ。じゃが、わしはまだ死んだ禅僧ではないんじゃ」』
言い換えると、死そのものについてあれこれ考えることが必ずしも答えにはならないということだ。
しかし、重要な問いかけを始めることによって、心を開き深めるプロセスが始まる。
その結果、死と無常の意識を〈今の瞬間〉にもたらすことになり、それが私たちの人生に奇跡的な変化を生む。
長年にわたって死につつある人たちと過ごせた幸運をありがたいと思っているし、おかげで自分自身の終わりを迎える心の準備もかなりできていると思うが、わたしはまだ結論には達していない。
人の死はどれ一つとして同じではないし、誰にも予測できないような不思議がそこにはあるからだ。
私の大好きなドイツの詩人、ライナー・マリア・リルケが詠んでいる。
答え無き悩みに、汝、あせるなかれ。
問いそのものを愛せよ。
誰も与えることのできない答えを求めるなかれ。
なぜなら、汝はその答えを知って心穏やかではいられないからだ。
大事なことはすべてを生きることだ。
その問いを今生きよ。
さすれば、いずれ知らないうちにその答えを生きているだろう。
死んだらどうなるのか?
私たちは死んだらどうなるのか。
宗教経典や精神修業をした人たちが残した豊富な証拠の数々や、臨死体験をした人たちの体験談を見聞きして、肉体の死後も私たちの一部は存続すると信じるようになった人もいるだろう。
私は、16歳の時に「体外離脱体験」をゆうに百回をこえて体験し、死後の世界とみえる異界で様々な見聞をリアルに体感したので、死後の世界が在ると確信している。
チベット仏教の老師であるカル・リンポチェは次のように語った。
「私たちは幻想の中で生きている。見かけだけの世界だ。しかし現実は存在する。私たちこそがその現実だ。
これが理解できた時、自分が無であり、無であることはすべてであることが分かる。それだけのことだ」
完全に目覚めた次元から発せられたそうした言葉は議論の余地がないように思えるが、それでも私たちは死後に自分が個人として存続するかどうかを知りたいと願う。
この質問の答えは、自分を誰、いやむしろ何だと思うかによる。
物質主義的な世界観を信じて、自分は肉体と自我でしかないと思うなら、答えはほぼノーだ。
わたしは、この肉体の呼吸が停止した時に消滅するにちがいない。
しかし、自分の意識を拡大して魂や覚醒意識のレベルも自分の中に含めるなら、肉体組織は器にすぎず、仮の住居に過ぎないと理解できる。
自分が魂だと知っていれば、肉体や人格は消え去っても、死後も何かが確実に存続すると分かるだろう。
今でもインド人はほとんど自宅で家族に囲まれて死ぬ。
従って、ほとんどのインド人はかつてのこの国のように子供の頃から死を目の当たりにして育っている。
インド人の言い方によれば、「死とは魂がもはや必要としなくなった“肉体を捨てる”」ことだ。
その人が意識的な生き方をした人であれば、それだけ死も意識的であり、死後もそうなる。
純粋な覚醒意識に到達した偉大な聖者はまったく平静に肉体を捨てることができる。
大きな視点から見れば、まるでたいしたことではないと知っているからだ。
こうしたレベルの意識を直接体験できる人は世界に一握りしかいないが、それでも誰もがこの可能性を持っていることを指し示してくれる。
肉体や精神、さらには魂までも超越して、死が破壊することのできない“魂(たましい)”に安らぐ部分が自分の中にあり、その部分と一体化して生きる可能性を示してくれる。
西洋の多くの哲学者たちも人生のある時期において死のベールをはいで、その後にくるものを次のように叙述している。
死とはここからあそこへの移動にほかならない。
-プラトン(古代ギリシャ哲学者)
死後に起こることはあまりに素晴らしくて、とても言葉にすることはできない。私たちの想像力や感情でそれを説 明しようとしてもあまりにも不十分だ。
―C・G・ユング(スイスの分析心理学者)
私があなたの目の前にこうしているのと同じくらい確実に、私はこれまで一千回も生まれています。
そしてもう 一千回、生まれ変わりたいと思っているんですよ。
-ゲーテ(19世紀ドイツの詩人、小説家、哲学者)