魂のめざめ

魂のめざめー7

~ 死ぬ覚悟(その二) ~

人が死を内包し、死をまるごと内包し、それを心の中にやさしく抱き、それでも
生き続けることを拒否しないということは、
とても言葉では説明できない。  
  
     (詩人・ライナー・マリア・リルケ)

 死後何が起こるかというのは世界のすべての宗教にとっての中心的テーマであり、個人の神秘的な世界観の基礎をなす。
しかしだからといって、こうしたさまざまな宗教が到達した結論が同じというわけではない。
それぞれの文化において、死後の体験は自分たちの宗教のイメージや神話に従って解釈される。

 文化によるこうした解釈の違いは、目が見えない人たちと象の話にたとえられよう。
巨大な動物を前にして、三人の目が見えない男たちが象の体をそれぞれ触って、言い争う。
「象は木のようなものだ」と足を触った男が言い、「いや違う。象は壁のようだ」と腹を触った男が言う。
「縄だ」と鼻を触った男が主張する。
三人とも同じ動物を触ったのだが、こうして言い争いはいつまでも続く。

 神秘的な体験もこれと同じで、死後の体験を描写する際もご多分にもれない。
私たちが死んだ後にどうなるかをそれぞれの宗教が説明しようとしている。
チベット仏教のバルドー(中間界・中有)、キリスト教の天国と地獄、仏教でいう天上界など、これらは同じものを指している。
つまり、魂が死後に入る次元のことだ。

 神秘主義の本では、私たちが見えない世界を言葉で表現する試みを描写するのに、月を指さす絵がよくつかわれている。
そこには、「月を指す指は、月ではない」の謎めいたフレーズが書かれている。
ここで指が象徴しているのは、私たちの理解を超えるものを表すために人間が使う言葉やイメージだと理解すればわかりやすい。
それと同じように、死後の体験を言葉で表現することは不可能でも、何らかの形で死後の世界が存在するという事実は確信をもって示せる。

 人間の理性の理解を超えるものを理性で理解することはできない。
まさに死とは、こうした異なる現実のレベルを分ける境界線なのだ。

 私たちは、みくら会で、瞑想体験などで自我の枠外に出て魂の観点から現実を観察することを学んだので、肉体があるままで死後の世界の神秘について考えることができるようになった。
これは無駄なこと、または矛盾したことに思えるかもしれないが、そうではない。
ただし、自分が理解できないものも素直に受け入れる態度があればのことだが。
冒頭にあげた詩人のリルケがこの点を見事に表現している。

 人が死を内包し、死をまるごと内包し・・・、それを心の中にやさしく抱き、それでも生き続けることを拒否しないということは、とても言葉では説明できない。

 それでも、死や死後の世界の神秘を意識しながら日常生活を送るようになると、物事を見る目が変わってくる。
今まで考えなかったような疑問がわいてくるだろう。
死が終わりでないとしたら、今日の私の生き方をそのためにどのように変えるべきなのか?
この終わりのない人生観を抱くとすると、私の期待や不安、悲しみや慰めはどのように変わるのだろうか?

 何といっても、すべてが死で終結するという考えには一種の喜びがある。
ニヒリストの喜びかもしれないが、それでも白黒のはっきりした答えが好きなタイプの人には安心感を与えるし、肉体や精神以上のものとして生き続けるよりも、死んで土に返ると考えるほうが怖くないというタイプにも安らぎを与えるだろう。

 カルマ(因縁の法則)や生まれ変わりが実際にあるとしたら、自分の行為が来世に影響を与えることを自覚して、果たして人はもっと意識的な生き方をするだろうか?
 それとも、自分の性格を矯正するにも永遠の時間があるから、目標を達成するのも現世でなくてもよいと考えて、いい加減な生き方をするだろうか?

 こうした問いかけが現在の生活にどういう影響を与えるかを確認していないと、単なる言葉の遊びで終わってしまう危険性がある。

 “生まれ変わり”がそのよい例だ。
神秘的な生命観に同意するとしたら、生まれ変わりが実際に起こることは疑いの余地がないように思える。

 だが、このことが今生きている私たちにどう関係するのだろうか?
私たちは”今、この瞬間に生きる“ことを学んでいるのだとしたら、未来の
人生について考えたり、過去生探求に興味を持って前世に自分がどんな人間だったかを調べたりすることにいったいそんな価値があるのか。
その答えは明らかだ。
現在の自分の行動がまわりに影響を与えるだけでなく、死後も存続する魂の意識に影響することが分かると、今真理に目覚めて、できるだけ賢く生きることの重要性がさらに明白になる。

 死の瞬間にどのような意識状態にあったかが生まれ変わりの方向性に影響することは広く信じられている。
生まれ変わりを信じるかどうかに関係なく、こうした考え方を利用して、人生の幕を閉じるときにできるだけ穏やかで慈愛と分別に満ちた人間であるように努力することもできる。

 そうすれば、もしこの神秘主義的な解釈が真理で、魂は私たちの生き方に基づいて来世を与えられるとしたら、大きな意味で私たちは成功したことになる。
そしてもし生まれ変わりがないとしても、少なくとも立派に生きて死んだことになる。

 そうはいっても、自分の死に方を批判したり、自分がつい惰性的な人生を送って勇気や思いやりにかけていたからといって不安がったりしないことが大切だ。
死の床にある時に、自分が悟らないまま死んだら魂が地獄で苦しんだり動物に生まれ変わったりすると信じて、自分で自分を苦しめている善良な人たちに私は何人か出会ったことがある。
そうした気持ちは、死という、人生で一番大きなチャレンジに直面する時に役に立たないばかりでなく、正確ともいえない。

 だいたい、ものごとを”正しくやろう”と頑張ったり、幸運な来世を願ったりするのは自我である。
自分の意識を変えることによって、死の質を変えることはできても、自分の生まれ変わりを自分で決定するわけではない。
それは魂の時間の中で起こるプロセスであり、到底自我には理解できるものではない。

釈迦がどのくらいの期間輪廻転生を繰り返しているのかと質問された時の逸話がある。
釈迦の答えはこうだった。
「水牛が一日に歩く距離を高さと幅と奥行きにした山を想像してほしい。
次に、百年に一度、絹のスカーフを口にはさんだ鳥が山の上を飛んで、スカーフが山頂にそっと触れるところを想像してほしい。そのスカーフが山を完全に削ってしまうだけの時間、私は輪廻転生をくりかえしてきたのだよ」

 キリスト教文化圏においては、紀元三百年から六百年のあいだに、トレント会議、ニセア会議、コンスタンチノープル会議において生まれ変わりに関する部分が聖書から削除され、生まれ変わりに関してはいまだに意見の一致が見られないが、ここ数年間、西洋においても生まれ変わりの可能性を信じる人が増えてきた。

 私とこれまで関わった人たちのなかで死んだ家族とコンタクトした不思議な体験を話してくれたことが少なからずある。

 いまから十数年前の北イタリアのトリノで私が聞いた話だ。
それは当時の取引先の社長から招待を受けたレストランでのことである。
社長の叔母が死んだ後、寺院で大きな葬儀がおこなわれ、多くの親せきや友人たちが参列して悲しみを共にした。
カトリックの信者とは名ばかりで、神をほとんど信じていない叔母の棺は一面の赤いバラでおおわれていた。
葬儀の最後に車輪付きの台に乗せられた棺が運び出されて、妻を亡くした叔父と家族が座る最前列を通り過ぎたとき、突然車輪が動かなくなり、一本の赤いバラが棺から落ちて叔父の足元に転がった。
結婚記念日に愛の証として一本の赤いバラを贈りあう習慣があったのだ。
席を立つ時に、叔父はかがんでそのバラを拾い上げた。
帰りの車の中で誰かが、そのバラは叔母さんがあの世から送ったメッセージではないかと言ったら、誰もが同意した。
きわめて合理的な精神の持ち主として知られた叔父までもが、それに同意した。
目の前で奇跡が起こったのだと、車中のみんなが喜び、「どうすればこのバラを枯らせないでおけるか」が話題になった。
翌日から、直ちにあちこちに問い合わせの電話がかけられ、数日後、バラは
アイスボックスに入れて空港まで運ばれ、特別保存加工のために空輸された。

 ガラス玉に入った液体の中に密封されて戻ってきたバラを叔父は暖炉の上に飾った。
だが残念なことに保存方法が不完全だったらしく、中の液体が少しずつ腐ってきて、数年後に叔父が再婚する頃には叔母の最後のメッセージは見るも無残な姿になってしまった。
ついに車庫の奥に移されたのを見て、甥である取引先の社長がガラス玉を貰い受けたのだという~。

私が彼のオフィスで机の上に置かれた大きなガラス玉を見たときの怪訝そうな表情を見て、そのわけを話しておきたいと思ったらしい。
 「なぜ?無残な姿のガラス玉を?」あらためて私が問うと、彼は「物質的なものはすべていずれ消滅するという法則を忘れないためだ」と、答えた。
日本語ではそのことを“無常”というのだと説明すると、彼はバラのような真紅のワインを私のグラスに注ぎながら、“ムジョウ”とつぶやいた。

 私は死後も魂が存続することを知っているので、愛する人の死を悲しんでいる人に対しては亡くなった人の魂に話しかけるようにすすめている。
これは慰めになるだけでなく、生きている人と亡くなった人の両方を助けることになる。
亡くなった人としても、自分がどこにいてどうやって先に行ったらよいのか、(または先に行くべきかどうか)がよく分からないことがあるからだ。

 ほとんどの人は自我と自分を同一視して、自分の肉体や精神が自分だと思って生きているので、死んで初めて自分の魂と接触することになり、戸惑うことがよくf011ある。
チベット仏教においては、他界した魂が中間界(バルト界)を進んで次に生まれ変わる手助けをするための特別の儀式が編み出されている。
私たちも、亡くなった人の魂を思い冥福を祈ることによって、このプロセスの手助けができる。 

2015-02-02 | Posted in 魂のめざめ