金沢妄想奇譚

金沢妄想奇譚-7

このブログは、わたしの妄想である。

 随筆でもなければ、もちろん小説でもない。
わたしという実在者と日常的に関わっている人たちや、かつて関わった人たちがこのブログを読んで、その内容が、わたしに関する事実だと勘違いしないようにと念を押しておこう。

  しかし、妄想ではあっても時には物語のように読めたり、あるいは書評にみえるかもしれない。
ブログの読者は、わたしの記事をどのように読んでもらってもかまわない。
夏目漱石やカフカの小説に正しい解釈が存在しないように、好きな様に読んでいただきたい。
ただし、冒頭に述べたように、このブログはわたしの妄想だ。
そのことを、頭の片隅において読んでいただければ、あとは自由に解釈していただいて結構です。

 ところで、妄想と空想の違いとはなんだろうか?
妄想という言葉には何かしら病的な影や、鬱屈したままに現実ではありえない想像をかたくなに保持する響きがある。
それに比べて空想は、決して現実ではありえない(であろう)という認識を、あらかじめ知りつつ思い描く健全な想像行為であり、想像の根拠のなさが特徴かもしれない。
いづれにしても、妄想も空想も、想像(イメージ)のひとつの形態にちがいない。
さらに、幻想と妄想の違いを明確に定義することはできない、と、わたしは勝手にそう思っている。
もちろん、幻想は多くの人に共有される可能性があるが、妄想は自分以外の誰にも理解されることはないだろう。
しかし、幻想も妄想も、信じる者にとっては真実として認識される点では同じだ。

 

  ~ 近くのミスドで、村上春樹の英訳された短篇集の「象の消失」をブツブツと呟きながら読んでいたら、たまたま近くのテーブルに座った二人の上品なご婦人の会話が耳の奥にストンと落ちてきた。
若くて美しい娘のような年代の女性が、わたしが紫婦人と名づけた(紫色のカーディガンを羽織っていたので)女性に「非常識な頼みごと」をして、そのことを紫夫人の年来の友人とおぼしき紅いご婦人(紅いフレームのめがねをかけていたので)に憤りながら話していた。
そして、わたしがトイレから戻ると、二人のご婦人はミスドから立ち去った後だった。
二人の話がわたしの耳朶(じだ)に絡んで、螺旋状に渦巻きながら耳の奥に落ちてくるには、それなりのワケがある。
紫夫人の夫が起こした車の追突事故を、夫は妻(紫夫人)に「追突された」と報告しながら、後になって赤信号で停車待していた夫が車をバックさせて、後ろに停車していた若い女性の車に「逆追突」していたと訂正したのだ。
そのような話が世間によく有るのか無いのかは別にして、若い女性は同じ会社の直属の部下ではないが、社内では役職も(夫は50代後半の営業部長)もキャリアも上の夫が黙って修理代を会社で直接本人に手渡せば事足りたかもしれない。
しかし、被害者の若い女性は、部長から「修理代を家内から直接もらって欲しい」と頼まれたのだ。
紫夫人が、自宅に現れた(これまでに出会ったことのない美しい)若い女性に修理代を手渡した時、その彼女が婦人に何やら「非常識な頼みゴト」をしてきたというのだ。
そして、ついさっきまで、友人と思しき紅いご婦人に向かって、苛立ちながら「非常識な女が非常識な頼みごとをしてきた」と、憤りながらくどいていた。

  わたしの空気頭にヘリウムガスがいきなり充填されて、首から上がゴム風船のようにミスドの喫煙室の天井あたり漂い始め、話しあう二人のご婦人と、小説を読む振りをしながら聞き耳を立てている私自身を見下ろしていたのだが、・・・わたしがトイレから戻ると、ご婦人は消え、妄想のゴム風船も消失していたのだ。

 夫と美しい若い女性が不倫関係にあって、何かを精算するために逆追突事故を夫が敢えて起こしたのか?
これでは、あまりに通俗的すぎて、わたしの妄想癖を刺激しない。
それともこの事故を契機にして、夫が若い女性に近づこうと図った?
この想像は不自然すぎて、わたしを妄想へと導かない。
熟年夫婦の危機を乗り切るために、夫が若い女性を妻に合わせることにより、夫婦の間に存在し始めたクライシス(危機)を払拭しようと意図した・・・?
ある出来事が誰かの妄想になる条件とは、まず出来事の意外性であり、妄想する主体(この場合はわたし)が、ある程度まで体験を共有する、あるいはまた、想像可能な出来事であることが必須条件だ。
少なくとも、わたしの妄想が発動される条件でもある。

  わたしは還暦を過ぎて、これから老人の仲間入りを余儀なくされたとば口に立っている。
もはや中年期は過ぎたが、そうかと言って世間で言う老人(65才以上)でもない。
わたしは、これまで成熟や老成などという言葉とは無縁に生きてきたので、いつでも宙ぶらりんな状態のまま世界を眺めるようにして今日まで来た。
一人娘に孫が三人。やがて孫の成長に押し出されるようにして老いてゆき、そんなに遠くない将来、寒天棒に押し出されるように、寒天のようなわたしの命はニュルリと終わるだろう。
わたしに誇れるものが有るとすれば、それは「妄想力」であり、三人の孫の成長を素直に「喜ぶ力」だ。

  ミスドで仄聞(そくぶん)した二人のご婦人の会話と声のトーンが久しく眠っていたわたしの妄想力を刺激して、「中年クライシス」を連想させたのだが、もちろん確かな根拠などない。
分析心理学者のユングなら、どのような妄想を働かせるのだろう?
日本にユング心理学をひろめた故、河合隼雄なら中年期に不意に訪れるクライシスは成熟への過程へと導く(個性化のプロセス)と、言うかもしれない。
妄想は新たな妄想を呼び込み、まるで物語のように展開していく可能性を秘めている。
暴力が暴力を連鎖させて、戦争に導く引き金となるように、妄想はひょっとして、これまで誰も書くことのできなかった「物語」を生み出す原動力になるかもしれない。

  先ほど幻想と妄想には明確な定義も境界線も無いと書いたが、つい最近、吉本隆明の「共同幻想論」を角川ソフィア文庫で四十数年ぶりに読みなおしたばかりだ。
背表紙には、「国家は共同の幻想である。風俗や宗教や法もまた共同の幻想である。もっと名づけようもない形で、習慣や民族や、土俗的信仰がからんで長い年月につくりあげた精神の慣性も、共同の幻想である」と、著作から引用されている。

 若い世代の方には、吉本隆明は、小説家の、よしもとばななの父として認知されているかもしれないが、彼はまごうことなき思想家であり、すぐれた詩人だ。
わたしがまだ高校生の時に出版された「共同幻想論」は、全学連(全国学生自治会連合の略)の活動家たちにバイブルのように読まれたと記憶する。

  文庫本の解説を小説家の中上健次が書いている。
その一部を、332pから引用しよう。

 「1968年、丁度六十年台末、この『共同幻想論』は街頭での一群の人々による暴力の噴出と共に共同幻想としての国家を露出させ、きたるべき事態を予告し、何にも増して国家とは性なのだと予言した。性が対幻想として読まれ共同幻想に転移していくという見ようによっては十全にアジア的(農耕的)なこの書物の出現は歴史的言えばほどなく起こる三島由紀夫の割腹自決と共に六十年代から七十年代初めにかけて最も大きな事件である~
中上健次の解説の副題は「性としての国家」である。

  村上春樹の小説「ノルウェイの森」の時代背景は、さきの中上健次が述べた六十年代末から七十年」の初めだ。
村上春樹の小説の多くが1970年(三島由紀夫の割腹事件が起きた年)代を軸に展開されている。
ここでは、村上作品についての書評をあえて書かないが、「共同幻想論」が出版された当時の熱狂が解説する中上健次の語り口によくあらわれている。
わたしは、中上健次のほとんどの小説を読んだが、代表作の「枯木灘」を含めて彼の作品をあまり評価しない。
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 解説文にも違和感を感じたが、精神分析学の父とも呼ばれるフロイトの説を生半可に理解したのではないのかという危惧を覚えた。
引用文中の「国家とは性なのだ」の文言に対しては大いに疑問を感じるのだが、ここではその詳細な論を述べない。

  話がまた、斬進的に横滑りしたようだ。
ミスドの喫煙室での英訳された村上春樹の「象の消滅」を読む進むうちに、わたしの内に眠っていた妄想発動装置が思いがけず起動されたにちがいない。

  閑散とした喫煙室で、タバコをくゆらせ、さてそろそろ帰ろうかという段になって、3人の若い女性がお盆に大量のドーナツを持って現れ、わたしの斜め前のテーブルに座り込んだ。
立ち上がりざま、また彼女たちの会話が耳に飛び込んできた。
一端、妄想回路が遮断されたわたしの回路が猛烈な勢いで再起動してしまった。

2015-02-12 | Posted in 金沢妄想奇譚