金沢妄想奇譚

妄想奇譚-4

Some of these days(いつか近いうちに)

まずは、ジャン・ポール・サルトルなる人物の思想(実存主義哲学)を簡単に述べておこう。わたしのように60才を過ぎた年齢の者にとって、実存主義という言葉と、サルトルやその生涯の伴侶ともいえるボーボワール女史の名前は、青春時代に一度ならず耳にしたことがあるはずだ。わたしより幾ばくか上の世代の知的好奇心が旺盛な学生にとっては、サルトルはまるで神のように崇められたし、実存主義ファッションなる現象も世間に流布したくらいである。しかし、現在ではサルトルも実存主義哲学も関心を引くことがない。このブログでサルトルの小説「嘔吐(おうと)」(正しい訳語は、”吐き気”なのだが)を取り上げるにあたって、現代の若者にもサルトルの思想の一端を紹介しておかねば、と、思ったのだ。

サルトルは実存主義という思想を唱え、自由の意味を追求したフランスの哲学者・小説家だ。彼の「実存は本質に先立つ」という言葉は、つとに有名である。実存が本質に先立つ人間は、何ものによっても決定されず、どんなことでも許されていると考えた。しかし、同時に、自由であるという事は己の行為についての一切の責任が自分にあるという事でもある。サルトルは人間の自由を主張しながら、同時に「人間は自由の刑に処せられている」と述べた。

言いかえれば、人間は自由であるがゆえに不安から逃れることができない存在でもあるのだ。

人間は自由であるよりも、むしろ自由にしか存在することができない、というのだ。人間は、自由であることの不安を軽くするために、決まりごとを沢山作り、それらがまるで当然のことのように素知らぬ顔をしてふるまうことができる。さらには、自らの判断と責任においてルールを選択もする。そのような営為のすべてが、その人そのものであり、自らを創るということだとサルトルは考えた。また人間は、自分の人生や行動に何かの意味があると思い、至高の瞬間を求めて生きているのだが、しかし、もともとそんなものは“無い”のだ。

存在そのものに意味がなく、偶然の産物でしかない。そして人間は、この無意味で偶然的な実存から決して逃れられない。何をしても無意味なのに、何かをしなくてはならない。サルトルの実存主義哲学の凄さは、それを知った上で、「アンガージュマン」(engagement)を唱えたことにある。 

アンガージュマンとは、積極的関わりを意味する言葉だが、自分に課せられた状況を立ちはだかる壁と感じて立ち止まるのではなく、むしろその状況に積極的に関わりを持って、乗り越えていく態度のことを指している。

~む、「妄想奇譚」が、とんでもない方向に横滑りし始めたなぁ~(笑)。いつものように近くのミスドでタバコをくゆらせながら、英語版の村上春樹の小説を読んでいたら、斜め前のテーブルに座った二人のご婦人の会話がわたしの空気頭にヘリウムガスのように充満して、首から上がフウセンのようにフワフワと舞い上がり始めたのだ。紫色のカーディガンを羽織ったご婦人の「吐き気がするわ」という言葉がきっかけになって、妄想風船がジャン・ポール・サルトルの小説「嘔吐」へと横滑りしたのだ。40年以上も前に読みふけった哲学書の概説を還暦を過ぎて、おぼろげな記憶で語ろうなんて、世も末に違いない。サルトルや実存主義に興味を持たれた方がいたら、いきなり哲学書に挑戦するのではなく、先のブログで紹介したカミュの小説「異邦人」を先ずは読んでください。そのうえで、サルトルの「嘔吐」を読んでから、実存主義哲学の入門書を紐解いていただきたい。

小説「嘔吐」の主人公は30歳で独身の旅行家兼歴史研究者、アントワーヌ・ロカンタンという赤毛の男だ。歴史学者と言ってもロ

150116_1610ルボンという策謀にたけた外交官兼政治家の生涯を探りだす仕事にたずさわっている文学的な歴史家である。ロカンタンは、ホテルで一人暮らしをしているが、物語は彼の日記形式で綴られていく。
ある日、ロカンタンは自分の中で起こっている異変に気づき始める。海岸で何げなく拾った小石や、カフェの給仕のサスペンダーを見て吐き気がしたり、ついには自分の手を見ても吐き気がするようになってしまうのだ。そして、公園のベンチに座って目の前のマロニエの木の根を見た時、激しい吐き気に襲われ、それが、“ものがそこにあるということ”自体が引き起こすものだと気がつく。

つまり、この吐き気は“実存に対する反応”だったのだ。(実存とは、独自な存在者として自己の存在に関心をもちつつ存在する人間の主体的なあり方を指す)やがて、ロカンタンは、思考と言葉が乖離(かいり)して、支離滅裂な状態を繰り返し、意識が朦朧としていく。そして彼は、物がただ物として、自分がただ自分として存在しているにすぎないと悟ったのだ。誰の意識の中にもロカンタンなどという人物は存在しないという事を初めて、認識したのだ。こうしてロカンタンは、実存(自覚的存在)が、単なる抽象的な概念に過ぎないと気づいた時から永遠に反復される“吐き気”に苛まれるようになったのだ。 現実の感覚が薄れて混乱することで、実存の上に意味を与えられた物が、ある時を境にして、まったく別の物になったような違和感を覚え、“吐き気”をもよおして、ロカンタンの日常生活が崩壊したのだ。

小説、「嘔吐」で登場するシーンで有名なのはなんといっても「マロニエの木(栗の木)」だが、もう一つ、主人公がカフェで「Some of these days」という実在するジャズの曲のレコードを聴くシーンも、印象深い。

私はウェイトレスを呼ぶ。「マドレーヌ、お願いだからレコードで、一曲かけてくれないか。ぼくの好きなやつを。ほら、Some of these days(いつか近いうちに)だよ」

  Some of these days You’ll miss me honey (いつか近いうちに、いとしい人よ私の不在を寂しく思うでしょう)

 いったい何が起こったのか。〈吐き気〉が消えたのだ。 

(「嘔吐」 鈴木道彦訳、人文書院より引用)

 

 

2015-01-18 | Posted in 金沢妄想奇譚