金沢妄想奇譚

「妄想奇譚」-3

「あの女には常識がないの、とんでもない非常識な人よ・・・」

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薄い紫色のカーディガンを羽織った中年のご婦人がそう言うと、テーブルの向い側に座った紅いフレームメガネの友人らしきご婦人が、タバコに火をつけながらため息を漏らすように相槌を打ちました。

「年代で言えば、私達の娘世代ね。物腰も柔らかいし、おまけに、とびきりの美人だわ・・・」紅いメガネのご婦人がそう言うと、「ねえ、あなた、あの女はなんのためらいもなく私に頼み事をしてきたのよ。非常識の範囲を超えていると思わない」紫のカーディガンの女性がそう言うと、「もちろんよ、信じられないぐらい非常識な娘よ。美人だからって話は別よ」紅いメガネの女が言いました。「あの女のことを思い出すたびに、わたし、吐き気をもよおすの」

 

え?吐き気ねえ~ご婦人方の娘の年だというのなら、たぶん30代前、それとも20代半ば? 二人の会話がわたしの耳朶に絡んで、やがて、まるで丸いドーナツが車輪のように立ったまま、耳の奥に通じる螺旋階段に回転しながら落ちて行きました。~とびきりの美人で物腰が柔らかい、そして非常識な頼みごと?紫のご婦人が吐き気をもよおすほどの嫌悪感?~謎は深まるばかりだ。いったん、謎を掛けられてしまうとなかなかめんどうだ。すぐれた小説は読者に謎をかけて読了させる。金沢21世紀美術館も各展示物に芸術性はないが、内容の無さを“謎かけ”で魅了する。謎が謎を呼んで、わけのわからないままに現代アートを理解しようと人々が世評に釣られて館内を徘徊するのだが、プールの底から見上げる景色にパースペクティブの転換を求められても、実は困惑するばかり。しかし、金沢21世紀美術館で、わたしは吐き気を覚えたことがない~。う~む、物腰が柔らかい?とびきりの美人!非常識の範囲を超える頼み事って?なんだか、不条理な匂いがしてきたぞ。あ~不条理といえば、アルベール・カミューの小説「異邦人」、まてよ、そうだ!彼の友人の哲学者、サルトルだ。サルトルの小説「嘔吐(おうと)」だ。

 

「それで、旦那の身体は大丈夫なの?首が痛いとか、肩が張るとか、いろいろあるでしょう?」紅いメガネのご婦人が、メガネをちょっと鼻にずらし気味にして尋ねました。「なんともないわよ。大した事故じゃないし、もともと頑丈にできているから大丈夫」そう答えながら、紫のカーディガンのご婦人はドーナツをつまみました。「ねえ、旦那が被害者なの?それとも加害者かしら」紅いご婦人がそう言うと、紫のご婦人が「私が被害者よ。うちの人が信号待ちで停車していたんだけど、何を思ったのか、いきなりバックして、後ろにいたあの非常識女の車にぶつかったのよ。それを隠して夫は、~追突されたけど、相手が同じ会社の若い子でね~、なんて私に嘘をついて、挙句の果てにあの非常識な小娘が何を思ったのか私を訪ねてきて、あんな非常識なことを頼んできたのよ」「旦那が車を逆走させて前からオカマを掘ったのね!」紅いご婦人がそう言うと、紫のご婦人は笑いながら、「バカバカしい話でしょ。ギアを入れ間違えたのかなんだか知らないけど、バックして追突したのはうちの人。だから加害者よ」

 

話がずいぶんと入り組んできたようだ。二人の会話を漏れ聞けば聞くほど、わたしは謎をかけられ、湧き上がる妄想が気体化してヘリウムガスになり、私のゴム頭を充填し始めた。本当は事故の加害者の夫がすぐにバレる嘘を奥さんについて、自分は被害者だと話し、同じ会社のまれに見る若い美女が加害者だと説明した。奥さんは自分の旦那が加害者であることをすでに知っている、にもかかわらず、被害者の娘のような年代の女が何事かを奥さんに頼み込んで、そのことに奥さんは、吐き気をもよおすぐらいに憤り、友人らしき紅いフレームの友人らしきご婦人にその憤懣やるかたない気持ちを吐露している。

 

カミュの小説「異邦人」を要約すると次のようになる。

「アルジェリアのアルジェに暮らす主人公ムルソーのもとに、母の死を知らせる電報が養老院から届く。母の葬式のために養老院を訪れたムルソーは涙を流すどころか、特に感情を示さなかった。葬式の翌日、たまたま出会った旧知の女性と情事にふけるなど普段と変わらない生活を送るが、ある日、友人レエモンのトラブルに巻き込まれアラブ人を射殺してしまう。ムルソーは逮捕され、裁判にかけられることになった。裁判では母親が死んでからの普段と変わらない行動を問題視され、人間味のかけらもない冷酷な人間であると糾弾される。裁判の最後では殺人の動機を「太陽が眩しかったから」と述べた。死刑を宣告されたムルソーは、懺悔を促す司祭を監獄から追い出し、死刑の際に人々から罵声を浴びせられることを人生最後の希望にする」通常の論理的な一貫性が失われている男ムルソーを主人公に、理性や人間性の不合理を追求したカミュの代表作だ。

 

わたしの妄想は、ヘリウムガスが充填されたばかりの風船のように膨らむばかりだ。生まれついての空気頭は今でも健在だった。還暦を過ぎても、一人娘に三人の孫が生まれても、日がな一日、ミスドでおかわり自由のコーヒを飲みながら、タバコをくわえて、英訳された村上春樹の小説を、電子辞書を片手に読みふけっている。もし、正しい老後の生活や、孫に好かれる老人のあり方が有ったとしても、わたしには随分と遠い世界の絵空事に見える。妄想が暴力のように連鎖して、さらなる妄想を掻き立てる。品の良さそうな二人のご婦人の会話が、(それまで女同士の会話は、宇宙の果てに住んでいる異星人のご挨拶にすぎないと遮断機を下ろして通りすぎるのを待つだけだった)なんの前触れもなく、わたしの耳から空気頭に飛び込んできたのだ。異邦人の主人公、ムルソーならぬわたしは、この不条理な気持ちを、実は楽しんでもいるのだ。

そうだ、ジャン・ポール・サルトルを忘れてはいけない。実存主義の騎手と目された彼の哲学は、今では評価が落ちた。そんなことはどうだっていい!彼の書いた小説「嘔吐」を読んだのは、今から四十数年前の高校生の時だった。三島由紀夫が割腹自殺する一年前のことだ。~妄想の連鎖が密教坊主の数珠のように無意味に連鎖して止まらない~

 

次回の「妄想奇譚」が、フランスの実存主義哲学者、サルトルの小説から始まることを予告して終了しよう。

2015-01-16 | Posted in 金沢妄想奇譚