2015-02

金沢妄想奇譚-8

「分け入つても分け入つても青い山」~ 種田山頭火

本日からブログを再開することにした。

わたしのような風来坊でも身辺が忙しくなるときがあったのだ。a1130_000493

もしや、ブログの拙文を心待ちにしてくれている読者がいないとも限らない。

「みくら音楽工房」のホームページに間借りしているからには、家賃に相当する一文を書いておきたい。

そうしないと、なんだか心が疼くのだ。

冒頭に掲げた放浪の俳諧師、種田山頭火(たねださんとうか)は一昔前に有名になったので、

ご存じの方も多いかも知れない。

ここで、通常の俳句の形式を大きく逸脱した山頭火の「自由律俳句(じゆうりつはいく)」について

確かめておこう。

 

自由律俳句(じゆうりつはいく)とは、五七五の定型俳句に対し、定型に縛られずに作られる俳句を言う。

季題(季語)にとらわれず、感情の自由な律動(内在律・自然律などとも言われる)を表現することに

重きが置かれる。

文語や「や」「かな」「けり」などの切れ字を用いず、口語で作られることが多いのも特徴である。

特に短い作品については短律とも言う。

以下に代表的な自由律俳句をあげておこう。

 

  曳かれる牛が辻でずつと見廻した秋空だ(河東碧梧桐)

  咳をしても一人(尾崎放哉)

  いれものがない両手でうける(同)

  まっすぐな道でさみしい(種田山頭火)

  分け入つても分け入つても青い山(同)

  うごけば、寒い(橋本夢道)

  ずぶぬれて犬ころ(住宅顕信)

  若さとはこんな淋しい春なのか(同)

  夜が淋しくて誰かが笑いはじめた(同)

 

ここで、自由律俳句を取り上げた本当の理由を明かそう。

それは、今話題のお笑い芸人ピース又吉直樹の小説「火花」(文藝春秋刊)を読んで、のことだ。

又吉直樹がコラムニストのせきしろと組んで自由律俳句の著書「カキフライが無いなら来なかった」、

「まさかジープで来るとは」(幻冬舎刊)の二冊で、自由律俳句と彼らが撮った写真がコラボし、

二人の世界観満載のエッセーへと連なっていくのを読んで、冒頭の放浪の俳人、種田山頭火を思い出した。

 

「弱火にしたいのに消えた」(せきしろ)

「急に番地が飛んだぞ」(又吉直樹)

「回文じゃなかった」(せきしろ)

「起きているのに寝息」(又吉直樹)

「自分の分は無いだろう土産(みやげ)に怯(おび)える」(又吉直樹)

「爪楊枝(つまようじ)の容器を倒して乱雑に戻す」(せきしろ)

「初めて発音するデザートを頼む」(又吉直樹)

見えないものを短い言葉で照射するその鋭い感覚に驚く。

短い断片のような言葉の背後に隠された物語を予感させる闇が、あるいは人の感性のきらめきが

スパークして貫く。

日常生活の既視感に染まったままでは見えない世界が、鋭く立ち現れて、わたしを幻惑してやまない。

又吉直樹の小説「火花」の中でも自由律俳句が効果的に使われている。

ここでは小説について敢えて感想を述べないが、それはきわめて優れた彼の才能に対するわたしなりの

礼儀であり、このブログを読んでいる方に、ぜひ書店に行って本を買って読んでいただきたいからだ。

わたしは、これまでにゆうに一万冊以上の本を読んできたが、まだ荒削りな表現はあっても「火花」は、

すぐれた小説であり、太宰治をすり抜けた才能が又吉直樹には確かにあると評価している。

「火花」を「花火」と読みまちがえた、それもまた(又)よし(吉)」 (恵蔵)

2015-02-13 | Posted in 金沢妄想奇譚No Comments » 

 

金沢妄想奇譚-9

どこまでが夢なのか、とにかく歩く

 気がついたら桜が散っていた。DSC_0525-600x401

去年はトボトボと近くの川沿いの桜道を歩いていたように思う。

一昨年は山桜を見ようと車で山に向かったのだが、まだ早すぎてがっかりして帰った。

十数年前に、思いもかけずに京都の鴨川沿いで車中から夜桜を見たとき、運転手さんが

「お客さん、ラッキーですねえ。いつもなら季節外れで散っている頃なのに、

ことしは冷え込んで今頃になりましたわ」と嬉しそうに言った。

植物園あたりでタクシーを止めてもらい、夜桜の路を川面の冷気を含んだ風を

頬に受けながらトボトボと歩いた。

四十代の後半だった。

いったい、わたしは、どこに行くのか、なにを探しているのか、そう思った刹那に

老いた桜木が枝を震わせて笑った。

「何度生まれてきてもお前さまは阿呆のままだねえ~」

老木は風に揺られながらシワだらけの樹皮を軋ませるように呆れ声でそう言った。

どこまでが道なのか、川なのか。

「西行法師は衆道の道行じゃったが、お前さまは独り道だな」と老木。

「願わくは花のもとにて春死なむその如月の望月の頃」と法師の和歌を私が口ずさむと

老木はまた笑った。

道を進んだ時、運転手さんの呼び声が聞こえた。

 

“ねぇわたしいつ死ぬの”桜咲くたび聞く女

 永観堂の板廊下を歩き、燃える炎のような紅葉の庭を見やりながら

私は何かに怯えていた。

晩秋の冷風に侏儒のように身を縮めて渡り廊下の端をそろりと歩き、

こころを震わせていた。

東大寺別当を辞して、永観が下賜された仏像の“見返り阿弥陀”を背負って京に戻り、

仏像を須弥壇に安置した時、奥深いところから声がしたという。

“永観、おそし”振り返りながら阿弥陀仏はそう声をかけたのだ。

永観堂を訪ねる前に、八坂神社に参詣したのだが、参拝する人混みをかき分けて

わたしに向けて語りかける女の声がした。

「ねぇわたしいつ死ぬの」

その声に振り返って見ても、誰もいない。

よもや、永観堂の御本尊様のいたずらかと訝ったが、阿弥陀様が

あのような呼びかけをするはずがないと思い直した。

昔の永観堂は静謐のなかにひっそりと在ったのだが、近頃では観光地化がすすんで

八坂神社に引けをとらないほど数多の人たちであふれている。

永観堂に着いて足早に回廊を進んでいくうちに、わたしの方向感覚が狂ったのか、

それとも上り廊下を間違ってしまったのか、こころに私を急き立てる声がしきりに

聞こえてきた。

晩秋の紅葉を透き通す光が私の行く手を阻むかのように立ちはだかったり、

チロチロと陽炎のように襖に燃え映りながら私を本堂へと導いた。

ようやく本堂にたどり着き息を殺して“見返り阿弥陀様”の前に進むと、

そこには見知らぬ女が座り込みながら独り激しく泣いているではないか。

見返り阿弥陀像の横に、「何を悩んでいるのか、おまえはもう救われてある」

と書かれた木札があった。

女がなぜそんなに激しく泣いているのか、そのわけは知らないが、たった今、

大きな力に女が救われたに違いないとそう思った。

首を左に傾けて、見つめる阿弥陀仏の透明な眼差しに、

私も女と一緒に救われたような気がした。

2015-02-12 | Posted in 金沢妄想奇譚No Comments » 

 

お知らせ!みくらトークセッション

みなさん、こんにちは!
今日はみくら音楽工房企画、みくらトークセッションのお知らせです。

初めて参加を希望される方のために、みくらトークセッションについて少し説明させていただきます。
このホームページのブログ記事でお馴染みのラクジー師匠こと、恵蔵さんをゲスト講師に迎えて普段のレッスンとは違った切り口で音楽を捉えてみようという企画です。
トークセッションは、これまでに14回開催しました。
『トークセッション』と名づけているように、話はその日に集まったメンバーの方によって色々変わります。

話題は、心理学や哲学、あるいは古代史、文学など多方面に渡ります。
また、ラグジー師匠は三十年以上にわたって、五百人以上の精神的な障害者の方や、「息苦しく生きている人たち」と関わってきました。
これまでトークセッションに参加された方は、異口同音に、師匠のお話にカルチャーショックを受けたと言います。

また普段とは違う側面から音楽を捉えてみようという趣旨も含んでいます。
みくら音楽工房のホームページにラクジー師匠のブログが掲載されていますので、読んでみてください。

⚫︎『妄想忌憚』シリーズ
⚫︎『魂のめざめ』シリーズ
上記のブログ記事を参考にしてください。

今月のトークセッションの予定は、

⚫︎第15回 トークセッション
2月17日 火曜日
20:00〜22:00
※ 開催場所は、みくら音楽工房、大場までお問い合わせください。
その際に開催場所と参加費をお知らせします。

⚫︎第16回 トークセッション
2月26日 木曜日
13:00〜15:00
場所は金石みくら音楽工房です。
飲み物やお菓子など、お好きな物を持参してください。

● 参加希望の方は、大場までご連絡ください。
また、ご希望の曜日や時間帯などありましたらご連絡ください。

また、不明な点は、みくら音楽工房にお問い合わせください。
それではよろしくお願いいたします。
(*^_^*)

みくら音楽工房・ボーカル科講師

大場佳恵

(null)

2015-02-07 | Posted in おしらせNo Comments »