魂のめざめ

魂のめざめー10

~ 病床に付き添う ~

 死に逝く人たちとかかわり始めた頃、わたしは死をめぐるこの国の文化の異常さにあきれた。
死の床にある病人は、ウソと偽善に囲まれ、親しい語らいを家族や近親者とすることもなかった。
私はただ黙って病人のそばで平静にしているだけでよかった。
それだけで、死にゆく人たちからそばにいてくれるようにと頼まれることが多かった。
私がそばにいると、心が落ち着き安心すると言われた。
そして自分の話を分かってくれるのはあなただけだとも言われた。
病人の家族はパニックに陥り、悲しみや混乱、怒りや苦しみなどを私のところに持ってきたが、私がしたのは彼らに心をひらき続けることだけだった。
病状の変化に対して感情的になったり否定しないように注意した。

 魂のレベルでの体験があったおかげで、病床での役目をはたせたのかもしれない。

 死にゆく人とかかわるようになってすぐに気付いたのは、彼らにとって役立つのは、私の神秘的な能力や体験ではなく、私の魂の存在そのものだった。
死につつある人のそばで本当に心から平静でいることには感染力があるようだ。
私が自我ではなく魂の中に安らいでいるので、そばにいる人の意識が魂の視野の広さに引きつけられ、いつのまにか黙って魂の腕に抱かれるようになっていく。
私はこのプロセスが相手に起きているのを自分でも感じることが多かった。
私が病室に入っていくと、死にかけている人のベッドの周りに人が集まって、それぞれが不安におののいている。

 こうした状況では、ある種の雰囲気を引き出すのが役に立つことを私は学んだ。
「不安がまったくない」という雰囲気をかもし出すようにつとめるのだ。

 つい最近のことだが、わたしは旧知の94歳のお婆さんを見舞った。
トイレで脳梗塞を起こし、身動きできないまま家族に発見されるまで閉じこめられていたのだが、冷たくなりかけた彼女の身体を家族が必死に温めて救急車を呼んで大学付属病院に搬送した。

 ナースセンター横にある病室に入ると、彼女は酸素チューブをつけたまま目を閉じて少し荒い息をしている。
私は彼女の顔に向かって語りかけた。
「もう大丈夫だ。私が来たからね。安心だ」
昏睡状態にあったはずのお婆さんは、私が病室にやってきたことに気づいていた。
身体を少し震わせ、口をわずかに動かした。
「おばあちゃん、大丈夫、頑張らなくていいよ。何も怖くはないからね。おばあちゃん、苦しむことはまったくない。おばあちゃんが私のいうことをちゃんと耳で聞いていることを知っているから、私の言うおりにすればいいよ。」
また、おばあちゃんの身体と口が動いた。
「そのうちにあたたかい光が見えてくる、懐かしい人の姿や顔が見えたら、だいじょうぶ。怖がらないで、光のなかに入っていけばいいんだ。おばあちゃんはどこも痛くないし、苦しくもないからね」
私には昏睡状態のおばあちゃんが聞き耳を立てているのが見えた。
死にゆく人に対して私が耳元にささやく姿は日常の出来事であれば奇異に感じられるだろうが、肉親の死を覚悟した人たちにとってはそうではない。
「おばあちゃんに会えてよかった、ありがとう」

精神分析医のエリザベス・キューブラー・ロス女史は、病院で死んだ人の体験について多くの著作がある。
死期を前にした人びとが体験する五つの段階―否定、怒り、交渉、絶望、容認(またはあきらめ)-に関する著作「死ぬ瞬間」は有名だ。

 五つの段階はこの順番通りに起きないかもしれないし、区別がはっきりしない場合もあるが、一般的にこれは正解だ。
死の床にある人の問題を解決してあげようとか、何かを教えよう、またはその状況を変えようと試みたことがあるが、そんな時、この五つの段階に繰り返し直面して苦労した。
私が自分の考える”理想的な死“を相手に押し付けようとしたり、こうでなければならないと執着心を発揮したときには、必ず裏目に出た。

 反対に、相手に愛情をもって接し、何も相手から望まなければ、わたしは彼らにとって安全な避難場所となる。
私が自分自身の考えや感情―悲しみや同情、嫌悪感や恐れーや、相手に反応したくなる誘惑などを自覚して、意識を澄ませていられたときには、魂の静寂をもたらすことができた。
さらに、そこで起きていることはそれでよいのだという感覚も生まれた。
この内面の落ち着きは岩のように堅固だった。
まわりの人たちが自分の恐れをそれにぶつけて試しているのが感じられた。
しかし同時に、自分のなかにある、似たような境地がこの落着きに共感しているようだった。
自我の流れや抵抗のベールの背後には誰もが直感的な知恵をもっているが、その部分が共感しているようだった。

 こうした死の床で人びとの心が開いていくのを見るのは素晴らしい。
それはまるで、苦しみにとらわれている人たちが、やがて暗闇から出てくるのがわかっていて、わたしは陽光の中で彼らを待っていたかのようだ。
それが実現すると、その人たちの精神をおおっていた雲が晴れ、死の重いくびきがはずれる。

 “こんなひどいことが起こるなんて”という感覚が、調和の感覚に取って代わられ、悲しみと肉体的な苦痛によって調和が深められる。
信じられないかもしれないが、絶望的な苦しみが死を目前にして喜びに変わるのを私は目撃したことがある。
悲惨な死を前にしたら、そんなことは不可能だと言っていた人たちが、心を開いて、通常の執着心を超えた境地に安らぐことを学んだら、そうなった。
こうした変化を目の当たりに見ると、奇跡に思える。

 死につつある人のそばにいるとき、私たちは死との間に距離をおこうとする自分の微妙な態度に注意しなければならない。
こうした分離は苦しんでいる人にとって罠となる。
死に対する自身の恐怖から自分を守るために、死につつある人を”他者”と見て、相手との間に安全な距離を設けようとする衝動がしばしば生まれる。
相手も自分も仮の肉体に宿る魂なのだと自覚して相手との区別をなくすと、真理が病室に入ってくるための道ができ、死につつある人と共に至福の境地を味わう可能性が生まれる。
このことは、ヤコブ病で若くして死んだK君のときに、実感したことだ。

 死につつある人の多くは、意識の入り口が狭められて肉体だけになってしまう。
不安が強かったり苦痛が激しかったりするために、自分がガン患者であるとか、心臓が悪いとか、肝臓障害があるということに朝から晩まで心を奪われ、それしか考えられない。

 家族や看護人も病状だけに目を奪われる傾向に陥ることが多く、死につつある人がどんな人間なのかに関心がなくなってしまう。
これは非常に残念な傾向であり、死につつある人の病気が本人の人間性よりも重要になってしまって、本当に気の毒だ。
こうした狭い観点に陥らないようにすることが重要だ。
死につつある人は、病床に横たわる以上の存在であり、肉体以上の存在なのだ。
相手にその思いが伝われば伝わるほど、そして相手に死がやってきたときに、そのことを覚えていられればいられるほど、それだけ苦しみが減るだろう。

 死につつある人が魂であるということを認識すればするほど、まわりが病気に関心を集中させて患者の意識を残さないでおこうとする方向に進んでいくときであっても、最後まで意識をはっきりと残しておくことができる。

 大勢の死にゆく人びとの最後を看取った、前出の精神科医、エリザベス・キューブラ・ロスの著作から引用しよう。

『以前、死に関する合宿を開いたことがある。これには大勢の人が参加した。
ある朝、三人の子をもつ三十八歳になる看護婦で転移ガンをもつ女性が、参加者に心理テストをした。
ガンの手術をした後で彼女を病室に見舞う場面を想像して、自分がどのように感じるかを書きだすように指示し、出てきた答えを黒板に書きだした。
答えのなかには、誰もが考える「かわいそう」や「かなしい」のほかに、「神様に腹が立つ」というようなものも混じっていた。

 答えを全部書き終わった後で、そこに書き出された感情は確かに彼女の見舞客たちが感じたものと同じだと認めてから、彼女はこう言った。
「私がどんなに孤独だったかがこれでお分かりでしょう? みんな、私の病状に反応するのに忙しくて、誰も私のことをちゃんと見ていなかったんです」』

 役割というのはどれもそうだが、”死につつある人“という役もその人の全体を含むだけの余裕はない。

 前のブログに書いた、余命一週間と医師から宣告されながら七か月間闘病した後に死を受け入れて、自分の葬儀で私に弔辞を読むことを依頼したNさんと交わした会話で、今回のブログを終了しよう。

(Nさん)「社長(当時の私は会社を経営していたので)、わたしはこの病気で死ぬことを受け入れました。
娘と一緒に葬儀の手はずも整えましたし、好きなカサブランカの花と一緒に写真も撮りました。
社長には言葉に尽くせないほど感謝しています。社長に最後のお願いがあるんですが、いいでしょうか?
私の死を少し早めていただけませんか?」

私は彼女の言葉にびっくりした。
私はちょっと考えてから、こう答えた。
「今のあなたは四六時中死ぬ準備に忙しすぎたんですね。一時間のうち十分ほど死ぬことにして、残りの時間はほかのことをしてみませんか」
Nさんは私の言わんとすることを理解して、微笑んだ。
その後、二人で瞑想をし、瞑想の中で周囲の音に耳を傾けた。
看護婦が廊下を歩く音、窓の外に居るらしい子供たちの話し声、病室におかれた目覚まし時計の音、病院の上を飛んでいく飛行機の騒音などを聞き、顔に触れるそよ風や窓から差し込む柔らかな陽光を感じ取った。

 一緒に〈今この瞬間〉に意識を向けた結果、死のドラマは色あせてしまった。
その時、私たちがただ生きていたことに突然、気づいた。
何の役割も決め事もなく、二つの魂が一緒に安らいでいた。
まるで時間が止まったようだ。
また、しばらく話してから私は病室を後にした。a0960_006111
それから十日あまり、Nさんは家族と私に見守られて、安らかに息を引き取った。

 死は私たちにとって最大の難関であると同時に、魂として成長する絶好の機会でもある。
意識的に生きる努力をし、自我ではなく自然に従うことによって、私たちはこの最後の旅に備えることができる。
そうすれば、私たちは肉体の死を超えて魂の旅における次の段階に目を向けることになり、それがほかの者への手本となり、自分自身の最良の友となるだろう。

2015-02-20 | Posted in 魂のめざめ