魂のめざめ

魂のめざめ-1

これから『魂のめざめ』と題したコーナーで、「今・この瞬間・ここに生きる」ことを、私流儀にひも解いていこう。

私たちが過去や未来にすっかり気を取られているために、いかに現在の瞬間に注意を払わず、そのために喜びや目覚めた意識が味わえなくなっていることを検討しよう。
さらに、意識的に老いることを通して意識の目覚めに到達する方法や、時間の流れの中で自分のバランスを保っていく方法についても考えたい。
そして最後に、人生の変化について語りたい。

無常の法則

キリストの生まれる約五百年前、シャーキャムニ・ブッダはインドのブッダガヤの菩提樹の下にすわって悟りを開いた。
あらゆる現象界の出来事は、いずれ消え去るという教義を説いたのだが、その教えは“無常”と呼ばれ、仏教のなかでも基本となる教えだ。

 昔の仏教修行者たちは風葬場で修業した。
そこでは死体が野ざらしにされて鳥獣に食い荒らされる。
修行僧はそこに一晩中座って、死体の腐敗段階の一つ一つについて瞑想する。
ぶよぶよと膨らんだ死体が骸骨となり、すべてが失われて骨の粉が残るだけになる過程について瞑想する。
この瞑想を通して、僧侶は肉体の無常を完全に納得するだけでなく、あらゆる物質の“無常”を悟り、物質界への執着を捨てることができた。
そして、精神や肉体を魂の次元から観察することを学んだ。
この瞬間に完全に意識を向け、静かで動じない地点から激しい変化の流れを観察することを学んで、僧侶たちは深い洞察を得た。

 肉体への執着を捨て、さらに物質界のあらゆる変化へのこだわりを捨てることができると、僧侶たちは自由の境地をかいま見ることができた。
彼らの意識がその扉を通って先に進むと、時の経過に関連して味わう苦しみが存在しない境地に出会う。
 このような“墓場の瞑想”は現代では不可能だが、私はかつて集中的な瞑想と、病気で死にゆく年若い人たちとの関わり合いの中で、“無常”の事実に目覚め、私たちがどのようにして“無常”を避けようとするかにも気づかされた。

 “無常”を知ったことで私のなかに大きな不安が生まれた。
私が立とうとしている場所がいかに危ういかということが分かったからだ。
私の自我は、真理を前にしてしり込みした。
自我は自分が独立した堅固な存在だという幻想を信じているので、自分がほかの物すべてと同じく、“無常”だという歴然たる証拠を認めようとはしなかった。

 そこで私が思い出したのは十九世紀の英国詩人、シェリーの『オジマンディアス』という詩だ。それは砂漠で発見された巨大な遺跡について語る。
遺跡の近くで発見された石には次のような言葉が刻まれていた。

〈 我は王の中の王、オジマンディアスであるぞ。
強大なる者よ、わが建造物を見よ。そして絶望せよ 〉

しかし、詩はこう続く。

〈 しかしその横に残るものは何もない・・・どこまでも人気のない砂漠が果てしなく広がるだけだ 〉

自我は自分の永遠性を信じて、自ら作り上げた王国の王様然としているが、
誰も避けられない変化に根底から崩される。

私は最近患った急性中耳炎のおかげで時間に対して少しユニークな見方ができるようになった。
以前の私は、今、何時何分かまで当てることができたが、今では外の雪を見て季節が冬であることを目前に実感するまで季節感が戻って来なくなったし、みくら会の開催日を中心に活動しているので、その日以外の日にちや曜日を忘れることがしょっちゅうだ。
六十才を過ぎてからは記憶力も衰えたので、私は今この瞬間に生きることを余儀なくされ、たまにさっき何を食べたかさえ忘れる時がある。
時には困ったりもするが、プラスの面をみると、おかげで自分がみなさんにすすめている精神修養の道を自ら歩かざるをえなくなった。
昔のように過去や未来に縛られることが少なくなって、じつに素晴らしい解放感にひたることがある。

 こうした理由から、病気や老化現象には精神的な成長を促す絶好の機会が隠れているといえる。
若いころのようには活発に動けないのでじっとしている時間が長くなり、生活のペースが落ち、今ここにあるものに意識が向かう。
昔のような記憶力や活動性を取り戻したいとも思うが、現在の限られた頭脳力から生まれる有利性も理解できるので、それを利用して、今にできるだけ意識を向けることにしている。

自分の呼吸を観察するという瞑想の手段を使えば、意識を現在の瞬間に向けられるようになり、自ら仕掛けた時間のわなから自分を解き放つことができる。
意識を完全に今の瞬間に向ければ、過去に起きたことを悩んだり未来に起きるかもしれないことを心配したりしなくなる。
今この瞬間に深く入っていくと、“自分”が消え去る。
少なくともこれまで自分が感じてきたような形での確固とした“自分”のイメージは消え去る。
現在の瞬間に入り込んで完全な自由を味わうと、まわりのものすべてー降り積もった雪、クラクションを鳴らす車、通りすぎる人たちなどーに恍惚となる。
あらゆるものと自分がつながっていることが実感できて、こうしたものすべてが、その瞬間、魂への神秘的な扉となる。

そうした状態の中では、過去や未来を煩うことはできない。
“自分”のことで悩むこともできない。
まわりから切り離された“自分”というものが存在しなくなるわけだから・・。
その瞬間、私たちは自我の欲望から解放され、魂に心を開く。
自我の拘束を破り、「自我のメロドラマ」を中断する。
 

過去を捨て、未来を忘れる

次に紹介するのはチベット仏教にある言葉だが、時間や変化を新しい目で見る練習に役立つと思う。

過去を引きずるな。

未来を引き寄せるな。

生来の目覚めを変えるな。

見かけを恐れるな。

すべては見かけだ。

年をとるにつれて、ついつい過去にこだわりたくなる。
毎日することが減り未来に期待することも減ってくると、過去の想い出にひたったり、くよくよしたりする。
過去の出来事を一つ一つ思い出しては懐かしがって見たり、後悔したり怒ったり寂しくなったり悲しくなったりして、現在の生活を過去の荷物や記憶で彩る。

 これは理解できることだが、思い出にひたることがその人にとって心理的な障害や重荷になった時、それに気づくことが大切だ。
また、過去の自分の姿に、どの程度しがみついているかにも気づくことが重要だ。
自分の過去にとらわれている人は、現在に生きることができない。
それに、結局のところ、過去と妄想にどんな違いがあるというのだろうか。

自分の過去を手放すことは過去を否定することではない。
過去の色眼鏡を通して現在を見ることをしないという意味だ。
例えば、私は自分のことを「小さな会社の創業者で、ボランティアで息苦しく生きている人たち(精神疾患者)と関わっています」と人に言ってきた。
それが私の過去だ。
しかし現在の私はその過去を語る人間だ。
経営する会社もなくなり、昔のように高級外車に乗ることもない。
そうした自分の姿にしがみつこうとすると、苦しみが生まれる。
今でもその時の話をすることはできるが、自分が社長と呼ばれていた時の人間にならずに話をしなければならない。

 私がしたことは当時の自分にはワクワクすることだったが、現在の私はそうした興奮は感じない。
その過去はもう手放した。
過去を意識の表面まで持ってきて、現在の目で見ることができる。
ドキドキワクワクする思い出がたくさんあるかもしれないが、それを現在の自分の意識まで持ってきて、こだわりや執着を捨てなければならない。

一つ一つの出来事に新鮮な気持ちで接し、“初心”を持って生きる努力を意識しないかぎり、過去の年月の集大成がおもり付の鎖となって私たちを縛る。

 例を挙げて話そう。
私はこれまでに何度か引っ越したが、過去の所持品をいつまでも引きずり歩く私の性癖は今もあらたまってはいない。
心は放浪者のごとくといいながら、思い出の品々をたくさん抱えている。
人が捨てた破れ鍋を拾って托鉢し食べ物や水の容器とした仏陀の教えに深く共感しながら、品物を箱に詰めたままラベルを張り、テープで閉じたまま棚の奥に収納している。
そしてまた引っ越す時が来たら、山のような書籍と思い出が詰まった箱を棚から降ろして引っ越しトラックに積み、次の住みかまで運んでいく。

「いったいなぜこんなことをやっているのだろう?何のためにこんなにいっぱい貯めているのだろう?」

 そこで気づいたのは、後で必要になるかもしれないという幻想のせいで貯め込んでいるということだった。
その時はどれも必要なかったのだが、いつか将来きっと必要になると思い込んでいた。
その時点での自分の生活は楽しいものだったが、やがて退屈な人生がやってくるだろうと心底信じていた。
現在の自分はすることがたくさんあって忙しいが、もう一度読み直したい小説や、昭和の故郷の写真が役に立つ時が必ず来るに違いない。
いつか将来、自分がどんな人生を送ったかを思い出すために箱の中身が必要になるだろうと思っていた。

 こうしたことがいかに馬鹿げたことかを、ある日突然悟ったのだ。
私は棚の奥から箱を下し、もう二度と読むことも無い本をゴミ箱のところに運んで行った。
最初、自分が正しく賢明なことをしていると感じた。
私を縛る底荷から解放されて身軽になったので、滑るように帆走できると思った。

ところがその夜、私はゴミ箱をあさって、どうしても捨てきれない写真や、
本を探しまわった。
「あの人の顔はもう二度と見られないかもしれない。あの本は今では絶版になっているかも知れない」と思いながら、夜の暗がりの中を必死で探した。
けれども、これでは自分がしたことの本来の目的を台無しにしているということにハタと気づいた。ゴミ箱に捨てるだけではまた取り返すかもしれない。
まだ使えるモノや本は人に差し上げよう。

 それから十年余り経った現在、私の部屋には箱詰めされた“思い出”や“
いつか役に立つかもしれない”品々で一杯になった。

 私は何も過去を捨てろとか忘れてしまえと言うつもりはない。
自分が昔どんな人間だったかを楽しく思い出したからといって、何も悪いことはない。

 ただ過去の自分と同一化するあまり現在の自分がなくなったり、今はなき昔の姿に執着して、それを失ったことを嘆き悲しんだりしないかぎり、何も悪いことはない。

けれども気をつけなければならないのは、人を笑わせたり人の同情を買うために過去の話を持ち出す癖だ。
例えば、私は昔、しょっちゅうニューヨークやミラノに出かけていた。
そこで見た壮麗なカテドラルや現代美術の作品を語ることがあるが、9.11後のニューヨークで遭遇した黒人やプエルトリコの若者との武勇伝にも似たやり取りや、マンハッタンで出会った不思議な漢字文字をタトゥーにしたアメリカの若者との会話を面白おかしく人に話すことがある。
深夜のミラノ市内を徘徊し、観光客を守るパトカーにホテルまで送られた話など、枚挙にいとまがない。
話し出すと、ひとつの面白い事実に気づく。
自分が別の人間になってしまう気がするのだ。
現在の私ではなくて、無鉄砲な人間になった気がするのだ。
私の自我にとっては、それはそれで楽しいことなのだが、そうすると自分は過去のアイデンティティにとらわれてしまい、本当の自分とは少し違うような気がする。

 老化のプロセスにもっと意識を向けるようになる過程において、昔の自分と現在の自分との中間点に引っかかって、まるで詐欺師のような気分がする時が出てくるので、それに注意を払うとよい。
老いていく自分を快く受け入れ、過去の記憶そのものになるのではなく、記憶の保持者になるにつれて、私たちはもっとイキイキと生きられるようになるだろう。

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2015-01-19 | Posted in 魂のめざめNo Comments »