2015-01

妄想奇譚ー2

物語は、わたしが日課のようにして訪れていたミスドの喫煙室で突然に始まった。

いつものように、窓際の喫煙室に座り、タバコを吸いながらアメリカンコーヒーをゆっくりとすするように飲んでいたら、わたしの斜め前のテーブルに座った二人のご婦人の会話が、耳に飛び込んできたのだ。鼻でもなく、目でもなく、左耳に会話がストンと落ちてきた。わたしは、同年輩であろうご婦人の話に聞き耳など立てる趣味はない。むしろ、これまでの経験から言って、ご婦人方の会話を聞かないほうが良かった!と思うケースが多々あったので、これまでは、こころもち耳をふさぐように、あるいは自分の世界に没頭して、会話を遠ざけてきた。

しかし、その時のご婦人の会話が不意にわたしに落ちてきてしまったのだ。わたしは、いつものように村上春樹の短編集「象の消滅」の英訳バージョン「THE  ELEPHANT  Vanishes」を読もうとミスドにやってきたのだが、一服目の煙草が半分も吸い終わらないうちに、二人のご婦人の会話が、はじめはスルスルと耳に落ち始めて、やがてコーヒーをすするときには、ストンと落ちてゆくのを阻止できなかったのだ。まことに不覚としか言いようがない。

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短編集「THE  ELEPHANT  Vanishes(象の消滅)」の中でもわたしが好きな物語は、「四月のある晴れた朝に 100%の女の子に出会うことについて」というとても短いお話だ。

村上春樹の小説は、日常生活の延長線上にさまざまな椿事(ちんじ)がごくあたりまえに起きて、読み込むうちに、日常と非日常の境界線を知らないうちに踏み越えてしまう、あるいはその境界線がふいに消失してしまう世界に導いてゆく。読みながら、ときおり眼差しを意識的に何かに向けない限り、ごくあたりまえの周りの風景が異界の景色に見えてしまう、そんな世界かもしれない。

日本語で読んだ作品を英訳(英語)で読み直すと、それまで隠れていた通奏低音(つうそうていおん)が聞こえてくるときがある。わたしは日本語のネイティブなので、日本語の表記に対して、どうしても慣れ親しんだイメージが付きまとうので、物語を予定調和的に理解する傾向があることに気づいていた。もし作家が、新感覚派の川端康成や横光利一であれば、彼らの駆使する印象的な語り口に黙って酔えばよいのだが、村上春樹の作品はそうはいかない。ひとつの物語に重層的に物語が幾重にも違った糸で織りこまれているので、これまでの小説家とは次元が違う!のだと思っている。

短編「四月のある晴れた朝に 100%の女の子に出会うことについて」のタイトルは、英文では「On seeing the perfect girl one beautiful April morning」である。100%の女の子=the perfect girl と訳されている。物語の作者と英訳者、そして読み手のわたし。三位一体となれば、西洋錬金術よろしく物語の「変容」が化学反応のように起きるかもしれない。村上春樹の小説の舞台のように、読み手のわたしも「日常と非日常」あるいは、「現世と異界」をめぐる世界にさまよえるかも知れない。

昨日からの続きを読もうと、ページを目で追いかけた時に、紫色のカーディガンを羽織った女性と赤いふちの眼鏡を掛けた女性の会話が、まるでオムスビころりんの昔話のように、わたしの左耳にストーンと落ちてきたのだ。

 

2015-01-11 | Posted in 金沢妄想奇譚No Comments » 

 

妄想奇譚 その一

myself001このブログは、ようやく人生の帳が降りることを自覚し始めた独居老人の戯言(たわごと)である。

これから書き連ねていく物語は、常識や世間体に染まっている人には解読不能な出来事であり、それらのお話は、私の妄想によるでっち上げ!であり、決してノンフィクションとして捉えてはいけません。かといって、時として嘘から誠がほとばしるように、妄想奇譚(もうそうきたん)からリアルを超えた超リアルな世界が現出しないともかぎりません。このブログの読み手は、眉に唾をたっぷりとつけて、私の描く物語に呑み込まれないように、こころして読み進んでいただきたい。

私がわたしとして生まれたのは、今から11年前にさかのぼる。当時、50代初めの私に初孫が生まれたのだ。一人娘に孫娘が生まれたと聞いた時、私はいきなり現実がでんぐりかえって、世界が逆さ向きに、まるで雨どいを音を立てて落下する雨粒のように私めがけて落ち込んできたような感覚にとらわれた。

産院のベッドに眠る孫娘と初めて対面したとき、彼女は小さな手を握り締めたまま眠っていたのだが、横のベッドに眠る出産を終えたばかりの娘が寝返りを打つと同時に、孫娘の目が一瞬、パックリと開いた。その刹那、赤ん坊を覗き込む私が体外から離れて病室の天井付近に漂い始めたのだ。え~?いったい何が起きたんだ!。風船のようにフラフラと浮かびながら私が孫娘を見下ろすと、孫娘が〈うすらぼんやり〉とした眼差し〉で私を見ている。これまでの人生の途上で重ねた虚飾や、都合のいい自己像が、孫娘の〈うすらぼんやりとした眼差し〉によって、串刺しに射抜かれてしまったのだ.。その時以来、生まれたばかりの孫娘に、それまで後生大事にしてきた私のすべてが、グルリ~ンとひっくり返されてしまった。そこで、私は〈私〉を辞めて(それまでの私自身に辞表を提出して)、新たな〈わたし〉として生きなおすことになったのだ。生まれたばかりの赤ん坊にわたしが産み出されて以来、それまでの人生では見えなかった風景が垣間見えるようになったので、これまでよりはるかに楽しく毎日を送れるようになった。

いまでは、わたしは三人の孫のジジィである。そんなに遠くない日に、ところてんや寒天のように、ニュルっと〈孫の成長〉という突出し棒で押されて、人生を終えるだろう。金沢に住みながら、金沢市内に単身赴任?(十数年前の夜、タバコを買いに近所のコンビニに出かけて以来、自宅に戻っていない)したまま還暦を過ぎてしまった。「老人破産」というNHKの特別番組を見ているうちに、あ~わたしは「老人破たん」だなぁ~とひとりつぶやきながら、老人としての清く正しい!生き方ができない自分を笑った。

このような〈わたし〉でも、人様に誇れる才能がたった一つだけ有ると自負している。それは、果てしなく妄想を膨らませて物語をねつ造する能力だ。常識と非常識の境界線に揺らめき立ちながら、逆立ちして見える景色を色彩のある世界に塗り替える力技、メチエである。あの世とこの世を往還しながら、魂が紡ぎだす物語に誰よりも感応してじっと耳を澄ませることができる、聞く力だ。

次回から、始まる「妄想奇譚」に、ご期待ください、ね。

2015-01-09 | Posted in 金沢妄想奇譚No Comments » 

 

素晴らしい場の理由

みなさん、こんにちは!

新しくなったブログを書いています。

以前と形式が違うのでなんだかドキドキしながら書いています。

機械オンチのため、なかなか苦労しております。

端谷先生が先日のブログで、新しいみくら音楽工房の場所が『素晴らしい場』と表現していました。
なぜ素晴らしい場なのか?
理由の一つとして写真をつけておきますね。

そうなんです。
大野湊神社がすぐ近くにあるのです。
以前から好きな神社だったので何度か訪れてはいたのですが、まさかこんな近くに引越してくるとは思いませんでした。

森!という感じがします。
参道の脇にみくら音楽工房があります。
ご近所さんが西警察署と大野湊神社だなんて、最強に守られています。

さっそく、端谷先生とみくら音楽工房の生徒さんとみくらの仲間たち、総勢21名で大野湊神社へ初詣に行きました。
21名を率いるのは、もちろんラクジー師匠です。

今年はどんな年になるかなー。
みなさんにとって良い一年になりますように!

みくら音楽工房・ボーカル科講師
大場佳恵

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2015-01-08 | Posted in 大場佳恵のブログNo Comments » 

 

ぼく、夢の中です

2012-07-16 20.19.32
皆さん こんにちは。大変ご無沙汰してます。ご無沙汰の間に世の中も個人的にも様々な事がありました。
みくら音楽工房の場所が変わりました。大場先生、ラクジー師匠を初めホームページ、フライヤー等制作してくれたRくん、Nさん、関わってくれた皆さん、そして生徒さんのご協力があり、とても良い場所で教室ができます。場所が変わってもみくら音楽工房の核となるものは変わりません。
素晴らしい場でドラムを叩き、そしてレッスンができるのです。
そんな素晴らしい場で、僕は高校生の頃から夢中になっているドラムを叩きます。
皆さんは夢中になれるものはありますか?
夢の中へいってみたいと思いませんか?
夢中になれるものが1つでもあるならば幸いです。

みくら音楽工房・ドラム科講師
端谷博人