魂のめざめ

魂のめざめー4

~ 永遠の今 ~

怖れに向かう

 変化を受け入れない場合、その結果は悲惨なものだ。
自分の力でコントロールできないものに必死でしがみつき、絶対に勝ち目のない状況にとらわれている人を誰もが一人か二人は知っているだろう。
そんな人たちは未来を寄せつけまいとし、すべてをできるだけ今のままに保持しようとし、余裕のない偏狭な生き方に凝り固まって、恐怖におののきながら生活している。

 それは半分生きているような半分死んでいるような、怖れに支配された生き方であり、人を身動きできなくさせてしまう。
変化の可能性を受け入れないかぎり、人生の可能性を受け入れることはできない。
このことは考えると怖くなることもあるが、年をとるにつれて誰もが直面しなければならない真理だ。
変化を思い通りにコントロールしたいという気持ちは、知恵を得ようとする時に最大の障害となる。

 自我と変化の関係はインドの神話を見るとよく分かる。
神話の中で、女神(または生命力)は主に二つの形を与えられる。
カーリーとドゥルガーだ。

 カーリーは恐ろしい女神で、首には骸骨の飾りをぶら下げ、腰には切断した手のベルトをしている。
舌からは血が滴り落ち、手には血にまみれた刀を握っている。
カーリーは自我の敵で、私たちがまわりの世界をコントロールしようとしたり何かに執着したりする時に顔を見せる自我のひどい側面だ。
カーリーの役目は、自我を破壊して、執着しているものから私たちを解放することにある。

 私たちが自我を捨てると、カーリーはドゥルガーに変身する。
ドゥルガーは黄金の女神であり、燦然(さんぜん)と輝く偉大なる母だ。
意識的な老い方をしたい人は、自分が怖がっているものやカーリーにできるだけ近づく必要がある。
そうすれば、自分が何に執着しているかがわかり、その執着を捨てた後に心の平安を味わうことができる。

 将来に対する大きな不安に直面することは魂の次元へ入るための素晴らしい手段となる。
私たちにとって、〈今この瞬間〉に含まれるあらゆるものを素直に見つめようとする心が大切であり、その中には自分にとって恐ろしいものも含まれる。
では、いったいどのようにして実行すればよいのか。
それは、怖れをなくす努力をし、自分の心の闇を見つめることによってである。

 私が死にゆく人と関わるボランティアを最初にするようになった理由は二つある。
まず、16歳から17歳にかけて私を襲った体外離脱体験で見た異界の景色であり、そのような超常体験をとおして学んだ人の生死の有り様が、それまでの死生観とはまったく違っていることを伝えたいと思ったのだ。

 ほとんどの人は自分には肉体と精神しかないと信じ込まされてきたので、そういう人たちの死の床に一緒にいることによって、それよりもっと大きな真理があるのだということを伝えたかった。
心はもっと拡大できるのだということを伝えられれば、死にゆく人たちを助けることになるだろうと思ったのだ。

 だが、二番目の理由はもっと個人的なものだった。
ほとんどの人と同じく、私自身も死ぬことを恐れていたので、死の恐怖から解放されたかった。
三十代当時の私は、自我の執着心や無知にからんだ嫌悪感や渇望や混乱など、ほかにも多くの問題を抱えていた。
煩悩のくびきから逃れるために無常の法則の特訓を受ける必要があったのだ。

 変化と無常の法則についてもっと深く学ぶ機会として、死に直面している人たちと一緒に過ごすことよりほかに効果的な授業はないと分かっていた。

 今の私が死の恐れから完全に解放されているとはいえないが、死にゆく人たちと時間を過ごし、その結果、自分の中にある死への嫌悪感を見つめた体験のおかげで、死への抵抗が減ったということはいえる。
そうした体験がなかったら、私にとって死は抽象的でとらえようのない魔物のままで終わっただろう。
自分が恐れたり心配している変化を目の前に映し出すものに、わざわざ意識的に直面することによって、未来に対する恐怖が減っていく。

 変化の必然性を目にしてしまうと、自然の法則によって当然の経過が訪れた時に驚いたり慌てふためいたりしないですむ。
だからといって、苦しみがなくなるわけではないが、苦しみに新たな光を当てることになる。
八十代や九十代になっても「なぜ私だけがこんな目に遭わねばならないのか」と嘆く老人たちに出会ったことがあるが、そういう態度をとる代わりに、こういう変化に備えてきた人は品位を失わないで、明るく自分の苦しみに耐えることができる。
自我にしてみれば変化は苦しみだが、魂の観点からいえば変化は変化に過ぎない

 もちろん最終的には、私たちが未来にたいしてとる態度は、自分が神秘に対してどう感じているかということで決定される。
自分や自分の人生についてどんなにたくさん知っているとしても、私たちには決して知ることのできないことが常にそれ以上ある。
魂は神秘にまったく戸惑わない。
なぜなら、神秘は魂の性質の一部だからだ。
知恵ある大人として、私たちは自我がコントロールできるものは何もないことを悟って、未来は自然に起こるにまかせ、神秘に満ちた現在に静かに安らぐようになる。

永遠の現在

 意識的に老いる努力を重ねれば重ねるほど、私たちが時間の奴隷になっているのは考え方のせいだった、ということが理解できるようになる。
あなたは気がついていないかもしれないが、次のような現象を自分でも経験したことが何度もあるのではないだろうか。
例えば、夢中になって何かをしていた時のことを思い出してほしい。
面白い本を読んだり、うっとりする音楽に耳を傾けていたりして、いつのまにか一時間も経っていたことにハタと気づいた経験があるのではないだろうか。
自分がしていることに専念して(あるいは、まったく専念しないで)、思い出と予感や期待のあいだをピンポン玉のように往復する頭脳活動をやめたことによって、あなたは実質的に時間の枠からはずれてしまい、過去や未来から自由になったのだ。

 そうした永遠の時間を体験した後では、体も心もゆったりと安らいでいることに人は気づくだろう。
まるで自分が鉄の腕にしめつけられていたことを、その腕がはずれて初めて知ったかのように。
意識的な老い方が目標とするのは、まさにこうした体験だ。
年をとって暇が増えるにつれて、時間の拘束から逃れて好きな時に永遠の時間を発見するためにこうしたテクニックを利用することができる。

 この自由を手に入れるカギは「今この瞬間に時間は存在しない」ということを理解することだ。
世界の偉大な宗教の聖典がその教えの中で、この”永遠の現在“に言及して、神を求める者に〈天国を探すなら、今自分が立っているところより遠くを探す必要はない〉と教えている。
言い換えれば、永遠は今であり、現在に意識を集中するあまり時間の経つのを忘れるようになると、日常生活の体験の中に隠された次元があることを発見する。
その次元は常にそこにあったのだが、私たちが時間に拘束されていたのでベールに覆われていたのだ。

 “今この瞬間”というのは永遠へ至DSCN0462_Rる道である。

2015-01-26 | Posted in 魂のめざめ