金沢妄想奇譚

妄想奇譚ー2

物語は、わたしが日課のようにして訪れていたミスドの喫煙室で突然に始まった。

いつものように、窓際の喫煙室に座り、タバコを吸いながらアメリカンコーヒーをゆっくりとすするように飲んでいたら、わたしの斜め前のテーブルに座った二人のご婦人の会話が、耳に飛び込んできたのだ。鼻でもなく、目でもなく、左耳に会話がストンと落ちてきた。わたしは、同年輩であろうご婦人の話に聞き耳など立てる趣味はない。むしろ、これまでの経験から言って、ご婦人方の会話を聞かないほうが良かった!と思うケースが多々あったので、これまでは、こころもち耳をふさぐように、あるいは自分の世界に没頭して、会話を遠ざけてきた。

しかし、その時のご婦人の会話が不意にわたしに落ちてきてしまったのだ。わたしは、いつものように村上春樹の短編集「象の消滅」の英訳バージョン「THE  ELEPHANT  Vanishes」を読もうとミスドにやってきたのだが、一服目の煙草が半分も吸い終わらないうちに、二人のご婦人の会話が、はじめはスルスルと耳に落ち始めて、やがてコーヒーをすするときには、ストンと落ちてゆくのを阻止できなかったのだ。まことに不覚としか言いようがない。

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短編集「THE  ELEPHANT  Vanishes(象の消滅)」の中でもわたしが好きな物語は、「四月のある晴れた朝に 100%の女の子に出会うことについて」というとても短いお話だ。

村上春樹の小説は、日常生活の延長線上にさまざまな椿事(ちんじ)がごくあたりまえに起きて、読み込むうちに、日常と非日常の境界線を知らないうちに踏み越えてしまう、あるいはその境界線がふいに消失してしまう世界に導いてゆく。読みながら、ときおり眼差しを意識的に何かに向けない限り、ごくあたりまえの周りの風景が異界の景色に見えてしまう、そんな世界かもしれない。

日本語で読んだ作品を英訳(英語)で読み直すと、それまで隠れていた通奏低音(つうそうていおん)が聞こえてくるときがある。わたしは日本語のネイティブなので、日本語の表記に対して、どうしても慣れ親しんだイメージが付きまとうので、物語を予定調和的に理解する傾向があることに気づいていた。もし作家が、新感覚派の川端康成や横光利一であれば、彼らの駆使する印象的な語り口に黙って酔えばよいのだが、村上春樹の作品はそうはいかない。ひとつの物語に重層的に物語が幾重にも違った糸で織りこまれているので、これまでの小説家とは次元が違う!のだと思っている。

短編「四月のある晴れた朝に 100%の女の子に出会うことについて」のタイトルは、英文では「On seeing the perfect girl one beautiful April morning」である。100%の女の子=the perfect girl と訳されている。物語の作者と英訳者、そして読み手のわたし。三位一体となれば、西洋錬金術よろしく物語の「変容」が化学反応のように起きるかもしれない。村上春樹の小説の舞台のように、読み手のわたしも「日常と非日常」あるいは、「現世と異界」をめぐる世界にさまよえるかも知れない。

昨日からの続きを読もうと、ページを目で追いかけた時に、紫色のカーディガンを羽織った女性と赤いふちの眼鏡を掛けた女性の会話が、まるでオムスビころりんの昔話のように、わたしの左耳にストーンと落ちてきたのだ。

 

2015-01-11 | Posted in 金沢妄想奇譚