魂のめざめ

魂のめざめ-9

~ 死ぬ準備 ~

 ここでは、死に対してどのように準備したらよいかについて検討してみたい。
一瞬一瞬を意識的に生きることや瞑想することなどは、精神や心を落ち着かせ、死というチャレンジを迎える心の準備をするのに効果的な方法だ。
けれども死の瞬間は本当に恐ろしいかもしれない。
この問題をもっと深く考えるために、最近テレビで見た、ゴムボートでの急流下りをたとえに使おう。

 最も危険な早瀬を乗り切るために、プロは岩や急流や滝に遭遇しても慌てず落ち着いて漕げるように厳しい訓練を受ける。
自分が死ぬところを想像するのと「ああ、いま死んでいるんだ」と思って落ち着いていられるのとは別だ。
平静な心でそうした急流に遭遇するには、水(無常)の感覚に慣れていなくてはならない。
カルロス・カスタネダの師、ドンファンが教えたように、いつも〈死を片方の肩に乗せておく〉ことが大切になる。
(注:カルロス・カスタネダはアメリカ先住民の呪術師ドンファンから教えられたことを数冊の本に著し、六十年代の反体制運動や以後のニューエージ思想に大きな影響を与えた)。

死を忘れず、あらゆる瞬間にその準備をせよという人生の知恵は、秋の落ち葉のように象徴的なメッセージとして現れることもある。
越後の良寛和尚が死に臨んで詠んだ、「うらを見せ おもてを見せて 散るもみじ」は、まさにそのことだ。

 わたしは旅先で野垂れ死にすることを本望としているので、西行法師のように、「願わくば 花の下にて春死なん その如月の 望月のころ」と詠みたいのだが、わたしには和歌の心得がない。
もし間違って、誰かがわたしに墓石のようなものを立ててくれたら、そこに以下のように刻んでもらおうと思う。

「あなたが今生きているように、私もかつて生きていた。
わたしが今死んでいるように、あなたも死ぬだろう。
死を友にして生きることは何とすばらしいことか。」

 死ぬ準備をすることは現在の人生をおろそかにすることだと多くの人が誤解している。
しかしこれは真実ではない。
死の床にある人と過ごしている時、自分が生きていることを最も痛切に自覚するということを、わたしは死にゆく人々とかかわる中で繰り返し何度も経験した。
人間の喜劇を観察することに長けていたフランスの小説家マルセル・プルーストは、世界的な災害が起こって自分がもうすぐ死ぬとわかったら人々はどのようにふるまうかという新聞社の質問に答えて、わたしと同じことを言っている。

~ 提案されたような形で私たちが死ぬとわかっていたら、人生が突然素晴らしく感じられると思う。
どれだけ多くの仕事や旅行や恋や勉強が私たちの目から隠れていることか。
私たちの怠慢さによって見えなくされていることか。
怠慢さゆえに、明日を確信して、人はものごとを先に延ばしている。

 しかし、こうしたことがどれも二度とできないという可能性があったとしたら、人生は再びどんなに素晴らしくなることだろう。
ああ、大災害が今回だけないとしたら、ぜひともルーブル美術館の新しい展示を見るだろうし、大好きな女性の足元にひざまずくだろうし、インドへの旅に出るだろう。

 大災害が起こらないのだとしたら、そんなことはどれもやらない。
また普通の生活に戻って、怠慢さが欲望をつぶしていく。
とはいうものの、今の人生を愛するのに大災害を必要とするのはおかしい。
自分が人間であり、今夕にも死がやって来るかもしれないと考えるだけで十分なはずだ。~

 プルーストが言っているように、死を遠ざけていると、現在の人生を存分に生きることができないが、反対に、いつ死ぬか分からないと思って生きていると充実した生き方ができる。
死にも愛にも言えることだが、自分と神秘の境が消えると、自我のくびきがゆるみ、魂が姿をあらわす。

 わたしはこれまでの人生において、死を受け入れるために、努力してきた。
自分をできるだけ軽くして、この神秘に落ち着いて接することができるように、これからも多くのものを捨てなければならない。
死んだ人も含めて、ほかの人間との確執をなくさなければならない。
人との関係に対して、自分が心の中で抱いているこだわりを捨てることがなによりも大切だ。

 ここで自分にすべき極めて重大な質問は、「この問題(こだわり)を抱えたままで死にたいかどうか」だろう。
ほとんどの場合、その答えはノーだ。
死の眼鏡を通すと、自我に由来する個々の人生ドラマを全体的な視野から見ることができるようになる。
それは素晴らしいことだ。
死の瞬間まで抱えているべき問題というのは実はほとんどない。
そこで自分がまだこだわっている問題を徹底的に調べ上げて、穏やかな死を迎える準備をする。

 人との問題を片付けるだけではなく、法律上の問題や医療面、財政面などで身辺の整理をしておくことも重要だ。
延命装置に関する自分の希望を明らかにして、回復の見込みがないのに生命維持装置に無理やりつなぎとめておくことがないようにし、臓器移植を希望する場合はそうした意思を明らかにしておくことが望ましいだろう。

 遺書を書くことは人によっては難しいようだ。
遺書を書かないかぎり死ぬことはないという迷信があるからだ。
こうした非現実的な思考は、あとに残された者に迷惑をかける。
わたしが昔経営していた会社の元顧問弁護士が話してくれたことがあるが、遺産相続争いで家族や友人がバラバラになってしまうケースが多々あるとのこと。
自分が死んだ後に残る人たちのためにできるだけのことをするのが私たちの責任だ。
こうした物質的な問題を片付けることは、精神修養の一部であり、世俗的なものを最終的に手放すことを意味する。

 どこで死にたいかというのもまた、重要な選択となる。
死の準備のなかでも、これは最も重要な決断の一つといえる。
できれば危機的な状況が生まれる前に、この選択をしておきたいものだ。
適切な医療措置が得られることを最大目的として病院で死にたいか、それとも自宅で死にたいのか。
最後まで意識的に生きて、魂としての観点をできるだけもって死ぬにはどうしたらよいのか。

 わたしが人の死に関わった経験で、今でも印象深く思い出される事例がある。
もう二十年ほど前の話だ。
余命二週間と医師から宣告された子宮がん患者のご婦人が、ご主人を通じてわたしに会いたいと言ってきた。
病室に入るなり、彼女は消え入りそうな声で「わたしはもう死ぬのでしょうか?」と、聞いてきたので、わたしは「まだやり残したことが有るのなら、死ぬことは考えないで生きましょう」とこたえた。
それから七か月余り、彼女はいったん元気を取り戻したのだが、やがて昏睡状態になり、病院のベッドで死んだ。

 わたしは毎週土曜日の午後、彼女の病室に通い、成人したばかりの長女と、発達障害の妹と、ご主人の三人を交えて死についての話をした。
半年を過ぎるころになると彼女は死をしっかりと受け入れて、自分が死んだらわたしに葬儀で弔辞を読んでほしいと依頼した。
快諾して、「わたしも、あとで逝きますから」と言うと、彼女は私を見ながら「ゆっくりときてくださいね」とこたえた。
病院にいる間に彼女は長女と一緒に外出して、自分の葬儀一式を寺の住職に頼み、写真屋に行ってカサブランカの白い花に囲まれた遺影を写し、春に死んだときと秋に死んだときの二つの布団と寝間着を用意した。
さらに、お金を貸してから顔を出さなくなっていた親戚に電話をかけて、借金を棒引きにし、わたしにご主人の友人になってほしいと頼んだ。
わたしが関わった七か月の間に、彼女は確実に死に向かいながら、その瞳は生き生きとした輝きを宿すようになっていた。
彼女は、昏睡状態のさなかに起き上がって担当医を呼び、「一切の延命治療を拒否します。しかし、先生から見て痛みが激しそうであれば、痛み止めだけは処方してください」とそう告げてから、再び昏睡状態に戻った。
わたしがご主人からの知らせで病室に駆けつけると、彼女は眼を閉じたまま荒い息をしていた。
手を握ると、彼女はかすかにわたしの手を握り返し、やがて身体をがくがくと痙攣させてから逝った。

 自分がどこで死にたいのかを伝えておくことと、死ぬ時にどの程度の意識レベルを望むかを決めることも重要だ。
もちろん死ぬ時には予期しないことがたくさん起きるので、どんなことが起こり、なにが必要で、いつ死が訪れるかを正確に予測することはできないが、自分の希望をまわりに知らせておくことはできる。
しかし、実はこれは簡単なことではない。

 過去二十年間に痛みの管理は大きな進歩をとげたが、まだ手探り状態だ。
医師のほとんどは肉体のケアにのみ関心があって、死に逝くひとの意識の質にはほとんど無関心なので、死の床で観察される苦しみのうち、どの程度が麻薬の攻撃から自分の意思を守ろうとする患者自身の戦いの結果なのかを私たち自身が判断しなくてはならない。
肉体の苦しみをなくそうとする熱意のあまり、医師たちは患者が自分の死を自分の目でしっかりと見つめることの重要性を見過ごし、その結果、別の種類の苦しみを生みだしているのではないだろうか。

 物質的な世界観に基づく医療界にあって、医療関係者は当然ながら自分たちが見たり触ったり計測できるものに注意を向ける。
世間の多くの人が信じているように、医師たちも患者の肉体の死がその人の存在の終わりだと信じているので、死や死のプロセスそのものにはほとんど関心がないし、それが未来の生まれ変わりに影響があるなどとも思っていない。
したがって、自分を魂の観点から見ようと決心している人間としては、自分の肉体の終わりにあったって自分の意識を守る役目を医師に任せることはできない。

 最も賢明な解決策は投薬の自己管理だろう。
これまでの研究によれば、患者が自分で鎮痛剤の投薬量をコントロールした場合は投薬量が減ったばかりか、苦しみも減ったという。

 最近の研究によると、出産の際に自分で鎮痛剤の量をコントロールできる器具を与えられた女性は、医師から鎮痛剤を与えられた女性に比べて、半分の量で済ませた。
これには二つの要因が挙げられている。
自己管理の場合は、痛みに応じて投薬量を調整できたが、医師の投薬の場合は、もしものことを考えて多めに与えがちなことが一つ。
もう一つは、自分で痛みをコントロールできると分かったら、痛みへの恐れが大幅に減少したことだ。

 死につつある人を対象に同じような調査をしたら、やはり自己管理する方が投薬量は減るだろうと、わたしは確信する。
痛み止めを医師に要請してから実際に受け取るまでに時間があるので、患者の多くは自分の痛みを予期し、過大評価する傾向にあるが、それは自分で自分の痛みをコントロールできないからだ。
痛みの管理に関しては、できるだけ自己管理をさせてくれるよう医師に要請するのが賢明だ。

 死の瞬間における自分の意識状態を他の人間の手にまかせるというのは実に恐ろしいことだといえる。
特に、その相手の人生観や価値観が自分と大きく異なる場合はなおさらだ。

 コントロールの問題として同じく重要なのは、人は自分の死の瞬間を選ぶ権利があるのかどうかということだ。
現在のところ、この権利は認められていない。

 私の意見では、病気のために思考能力が衰えている人や、痛みがひどくて適切な判断能力に欠ける人を除いて、死にゆく人たちは自分の心身の状態や希望に関してしっかりした判断能力をもっている。
自分がいつどのように死ぬかを選ぶ権利を奪うことは、この人たちから知恵を奪うことであり、そうした知恵の価値を認めないことを意味する。

 チベットのような精神文化の発達した地域では、この国とは違って、自分の死ぬ時を選ぶ権利が疑問視されたことはない。
チベットでは昔から年老いたラマ僧は自分の肉体を脱ぎ捨てる儀式に人びとを招待する。
自分が死ぬことに何の不安もないからだ。
決められた時間が来ると、ラマ僧は三回ぐるっとまわってから瞑想し、やがて心臓と呼吸を止める。
これは自殺だろうか。
それとも不道徳な行為だろうか。
または単に、機(死ぬ時)が熟したことを知っているだけなのか。
それは個人が判断することで、他人や政府が判断すべきことではない。

 私たちは自分に正直に尋ねなくてはならない。

「できるだけ長く生きることが、
a1130_000293常にもっとも賢明なことなのか」を。

 

2015-02-12 | Posted in 魂のめざめ