魂のめざめ

魂のめざめ-5

~ 魂の時間 ~

 これまでに論じてきたさまざまな時間―客観的な時間、心理的な時間、文化的な時間などは、すべて自我が体験する時間だ。
しかし魂の時間はそれとは大きく異なる。
魂は自我とは異なるカレンダーで生きている。
魂の観点から見ると、自我は朝生まれて夕方には死ぬ蜉蝣(かげろう)のようなものだ。
私たちが魂の観点に慣れてくると、時間との関係も変わってゆき、時間を魂の目で見るようになる。

 私たちが深い知恵を求める道を歩くようになり、魂として生きることを探求するにつれて、私たちの社会が日常生活において神聖なものにほとんど注意を払わないことに気づくだろう。

 こうした無視が一番目につくのが時間の分野だ。
私たちの社会が時間をどうとらえているかを理解するにはー時は金なりーということわざを思い出せばよい。
社会の意識が、いかに実利的で現世的か、それだけでわかる。
時間はほかの所有物と同じように、“使ったり”“浪費したり”するもので、
“あったり”“なかったり”すると私たちは教えられてきた。
時間を神聖なものと考えたり、一瞬を聖なる時と考えたりすることは、私たちにとっては非常に珍しいことにちがいない。

 私は小さな温泉町の商家の次男坊として育ったが、昭和30年代のこの国では戦後復興の歩みが幼かった私にすら感じ取れて、大人たちは寸暇を惜しんで懸命に働いた。
悲惨な戦争体験を経た大人たちは、今から見ればかなり劣悪な労働条件であっても、明日の生活の基盤を築くために必死であった。
時間を惜しんで働くことが、明日への希望へと連なっていた時代だ。

 そんななかでも、六月の始めに行われる三日間にわたる大祭には街中の時間が変容して、ゆっくりと流れた。
祝祭の日に流れる時間は、日常の時間枠では捉えることができない。
華やかで、神聖で、空でさえ普段よりも鮮やかに青かった。
祭礼に関わる街の大人たちは何日も前から祭りの準備に忙しかったし、ハッピ姿の青年を見かけるたびに、幼い私は胸をときめかして祭りの日を待ちわびた。
日常生活が厳しければ厳しいほど、受け継がれた祭礼の時は晴れやかになる。
何百年にも渡って伝承された祝祭の儀式が、その地域の時間軸としてよみがえり、それまでの時の流れをせき止める。
そして、祭りが終わるとまた新しい気を含んだ日常の時が始まる。

 年をとるにつれて、休息や神聖な時間がぜひとも必要になる。
日常から離れた休息の日を持つことは魂と向き合う時間をもたらす。
時間や忙しさを忘れて、人生の神聖さを思い出す時間を定期的にもつことが必要だ。
体力や精神力が補給されるだけではなく、生きる力も補充されて、〈今、この瞬間〉に私たちの意識を向けさせてくれる。
生きる力は、庭の花木と同じように細かな心配りが必要だ。
日常生活から離れた時間を過ごすと、私たちの中にある永遠性がはぐくまれていく。

 私が三十代の始めに関わったK君と過ごした濃密な時は、今でも鮮やかによみがえる。
中学二年になったばかりの14歳のK君は、当時も今も治療法のないヤコブ病を発病して間もない時だった。
ヤコブ病とは、異常な「プリオン」というタンパクの増殖によって引き起こされる病気だ。この病の典型的な症状はそれまでごく普通の生活を送っていた人が、めまいや立ち眩みを感じたり、あるいはうまく歩けないなどの症状を感じるところから始まる。
これが数ヶ月のごく短期間のうちに、目が見えにくくなり、音が聞こえなくなり、言葉がうまく話せなくなり、字が書けなくなる。どんどん症状が進行し、大抵の場合、人は一年も経たないうちに「無動性無言」という寝たきりの状態に陥ってしまう。

この国で10番目の患者となったK君の運命は、一年をかけてゆっくりと死んで逝くことであり、当時は病の原因も不明で、今でも治療法はない。
私がなぜ彼と関わりあうようなったのか、その理由を敢えてここには書かないが、その時が来たら書こう。

 K君の14歳の誕生日の翌日に、私はある人物の要請で、初めて彼に会った。
パジャマ姿に坊主頭の彼は、ふいに訪れた私をいぶかる様子もなく迎え入れてくれた。
二時間ほどK君と話し込んでいくうちに、私は「善人は早死にする」という警句を思い出していた。
彼の真っ直ぐな笑い声に、年長者である私がすっかりと魅了されていたし、
一年もたたないうちに死んで逝く病人だとは思えなかった。
週に一度か二度、私は仕事の合間に時間を見つけて彼に会い、その日の出来事や、誰かから聞いた可笑しな話を語って聞かせた。
そのたびに、K君は声を立てて笑った。

 病状は時間の経過とともに、確実に悪化していった。
脚がもつれ始め、やがて立ち上がれなくなり、それでも私が彼を訪ねると、
布団の中からミノムシのように這って私の膝に頭を乗せてきた。
それから一ヶ月もしないうちに、目が見えなくなり、やがて耳も聞こえなくなった。
私が来たことを枕元の祖母がK君の手のひらに何事かを書くようにして知らせると、彼は布団の中からゆっくりと手を挙げた。
まるで虫の触角のように手を動かしながら辺りを探り、私を見つけだして、
布団から這い出し、いつものように私の膝に頭を乗せた。
今はもうすっかり盲目で、おそらく何も聞こえていない彼を膝に抱きかかえながら、私はいつものように話しかけた。

 海に落ちて波に呑まれそうになったドジなカモメの話をすると、彼は身体を微かに揺らせて笑っている。
昨日訪れた奥能登の海岸線で目撃した、空中でカモメ同士が衝突して一羽の
カモメが海に失速して落下した話である。
そうこうしているうちに、K君は私に抱かれたまま眠ったようだ。
微かな寝息が聞こえる。
部屋には夕陽が射し込んできた。
辺り一面が橙(だいだい)に染まって、一瞬、金を含んだ紫色になった。

 時間が停止し、思考が緩慢になって、“私”と“K君”との壁が消え去った。
過去と未来が溶けて現在となり、私と彼との境目だけではなく、部屋中に存在する物とも境界線が消えてなくなった。
そこには“わたし”も“K君”も存在せず、私がたったいま話したドジなカモメもいない。
そこに存在したのは、一つの魂であり、私もK君も、一つの魂にすぎなかった。

 意識が高まり時間が消え去った瞬間、私に抱かれて眠るK君の腕がだらりと垂れたまま、指先が畳につくのを見た。その刹那に、私と彼の肉体が砕け散って死んでしまい、大地に戻るのが見えたような気がした。
そう考えると、今自分とK君が生きて呼吸していることに深い感謝の念がわいてきた。
この世で肉体を与えられることが、たとえ不自由ではあっても、いかに素晴らしく稀なことかと感謝した。
生きて一日の可能性を充分に味わえることが、なんとありがたいことか。

 眠るK君に導かれるようにして時間の概念を失い、永遠の現在に安らぐことができた私は、まわりのものすべてを心から愛おしいと思った。

 このように恍惚とした境地は手の届かないものではないし、遠くに出かけていく必要もなければ、目覚めた人と会う必要もない。
そうした境地は常に私たちのすぐ手元にある。
ちょっと立ち止まって、自分のまわりにいつも存在する奇跡に目を向ければすむことだ。
私たちは時間という概念にとらわれ過ぎているために、その瞬間に起きていることがほとんど見えない。
そこで起きている素晴らしいことを推測し、そして言葉で定義しようとする。
しかし、思考を停止して真っ直ぐに目を見開くと、新しい人生がそこに待っていることに気づくだろう。
私たちの肉体は日々老いてゆくが、それぞれの瞬間は新しいのだから、時間で規定されるこの世界を永遠のリズムで動くことができるようになる。

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2015-01-30 | Posted in 魂のめざめ