魂のめざめ

魂のめざめ-3

~未来への執着を捨てる~

失ったものを嘆き悲しむ

年をとるにつれて、失ったものを素直に悲しむことができる能力が大切になる。
これは当たり前のことに聞こえるかもしれないが、私の経験ではそうでもない。
私たちの社会では、感情を抑えて前向きの姿勢で生きることが奨励される。
「時は金なり」と時間の貴重性が強調され、緩慢(かんまん)や内省指向、憂うつな態度は嫌がられる。
そんな社会にあっては、喪失の悲しみは健康な真理であり人生の必然的な一面であるにもかかわらず、見過ごされることが多い。
ところが、年をとって失った人や失ったものが増えるにしたがって、意識的にそれらを悲しむことがますます必要となる。
喪失を素直に悲しめるようになって初めて、過去を捨て現在の瞬間に生きる可能性が生まれるからだ。

 私たちは老いるにつれて、失うものも増えていく。
これは無常の法則だ。
人は愛する家族を失い、大切な夢を失い、健康や仕事や人間関係を失う。
矢継ぎ早に失う気がすることも多い。
こうした喪失からは深い悲しみが生まれるので、私たちはそれを全面的に受け止める心の準備が必要だ。
そうでなければ、心を開いて生きることはできない。

 私は、ボランティアで、これまでの長いあいだ、死別や喪失を悲しむ人たちと関わってきたが、私がそうした人たちに何よりもすすめるのは、悲しみや痛みを抑えようとしないで全面的に味わうことだ。
苦痛を避けたがる生来の傾向に対抗するために、できるだけ苦痛に心を開き、深く傷つくにまかせる。
時間を充分にかけて自分が失ったものを思い出す。
それは死んだ友人や家族かもしれないし、長年の夢や希望かもしれない。
家を失ったことや、仕事や故郷を失ったこと、健康を失って二度と元の生活ができないことかもしれない。
喪失の悲しみの前に心を閉じるのではなく、こうして心を開くことによって、人は愛する者を失った時にのみ、喪失の悲しみを味わうのだと気づく。

 喪失を悲しむようになると、そのプロセスが白か黒かというように明確に分けられるものではないことに気づく。
どちらかというと、らせん状をたどり、悲しみを手放したかと思うと、しばらく元の状態に戻り、それからまた一段と深いレベルで悲しみが手放されるという具合に進行する。
死別や離別や失ったものを悲しんでいる時によくあることだが、もう十分に嘆き悲しんでこれで終わりだと思っていたのに、また深い悲しみが波のように襲ってきて戸惑うことがある。
こうした理由から、このプロセスには忍耐心が大切であり、早く終わらせようと焦らないことが肝心だ。

 喪失を激しく嘆き悲しむ時期はある程度の時間が経れば終わるが、人によってその期間はまちまちだ。
深い悲しみが完全に消え去ることは無い。
しかし最終的には〈愛は死より強い〉ということわざの真理に到達するだろう。

私は以前に、夫を突然に亡くした老婦人と出会ったことがある。
彼女の嘆きは深く、夫が死んでから三か月たっても泣いてばかりで食事もろくに摂れないありさまで、身体的にも大きなダメージを受けていた。
そんな様子をみかねた彼女の友人が、私のところへ連れてきた。
私は彼女の状況を次のようにたとえた。
「今、あなたが”知恵を生きる女性のための訓練“を受けていると仮定したらどうでしょうか。もしあなたが知恵のある女性となる訓練を受けているとしたら、あなたの人生で起こるあらゆる出来事は、あなたのためだということになります。亡くなられたご主人との関係や思い出は、あなたの知恵の一部となるでしょう」
その前に、彼女には夫との関係が魂の関係であることを理解する必要がある。
「あなたが肉体の次元では一緒にいられないご主人と、もし魂でしっかりとつながっていることを発見できたら、どうでしょうか?」
痩せ細った老婦人は、私の話に目を向けた。
「あなたが食事を摂らなければ、あなたの中にいるご主人も食べることができません。いつまでも泣いてばかりいて、ご主人からの呼びかけを聞き逃しているとしたら、これからもあなたは独りです。」
彼女の虚ろな眼差しが変わった。
「あなたはもう充分に悲しんだ」
そう言って私が彼女の肩に手をおくと、彼女は身をよじらせて泣いた。

未来への執着を捨てる

 〈今、この瞬間〉に意識を向けるようになると、過去から自由になれるだけではなく、未来からも自由になれることを人は発見する。
これまで、みくら会で、ミンデル講座(プロセス指向心理学)で学んできたように、未来が“起きる”前にその微かな兆しに気づけば、起きうる未来を自分の思考の中に招き入れて不必要に悩んだりしなくなる。
というのも、過去の思い出にとらわれてしまうのと同じように、未来への期待や予感にとらわれてしまうこともあるからだ。

 自分の手に負えないと思える難題やさまざまな期待を抱えて、多くの人が将来についてあれこれ思い悩む。
そして、現在をありのままに体験する代わりに「もし○○だったらどうしよう」という思考の海に投げ出されてしまう。
これは何の役にもたたない、虚しい行為だ。
身のまわりを整理して将来に備えなければならないのは当然だが、老人の多くがするように、ひっきりなしに心配したり不安からイライラしたり不機嫌になったりするのはまったく意味のないことだ。

 私たちが抱く恐れのほとんどは、よく見ると、どんな未来がやって来るかと自分が想像していることと関連している。
恐れは未知のものがあればあるほど大きくなる。
私たちの多くは自分が恐れているものを避けようとするが、恐れの威力を減じるには、できるだけ間近で怖れを見つめて、未来に対する自分の考えを現在に持ち込む方が有効だ。

 わざわざ未来を”招き入れる“ことはしたくないが、年をとるにつれて直面するさまざまな可能性に目をつむるわけにもいかない。
将来起きるかもしれない病気や死別や喪失などを数え上げてみると、自分が
自我でしかないと思っている限り、それは耐えがたく恐ろしいものに思える。
魂の次元があることを認めたり、瞑想を実践して魂の意識を体験したりしないかぎり、私たちは沈没する船に閉じ込められた自力で逃げ出すことができない乗客のようなものだ。

 しかし魂の観点から見るようになれば、恐れに打ち負かされることなく怖れを吟味する余裕が生まれる。
将来自分の身にふりかかるかもしれない災難のうち、最悪のものを書き出してみよう。
それから書き出した項目を一つずつ心に思い描き、〈今、この瞬間〉それがどのように感じられるかを見てみる。
こうしてその影響力を失わせるのだ。
この方法は、皆さんと学んできた、ユング心理学を母体に生み出された、アーノルド・ミンデルのプロセス指向心理学のワークに他ならない。

〈今、この瞬間〉とは、禅の曹洞宗の開祖、道元禅師のいう「而今(にこん)」と同じ意味であり、写真にたとえれば、“この瞬間に世界を写しとる”ことだ。

 〈今、この瞬間〉を意識し続けていると、自分の思考が怖れを生み出していることに気づくだろう。

時間と変化

 時間と変化は相関関係にある。
私たちは時間の経過を何かが変化したかによって測るし、変化を時間の単位で測る。
多くの老人にとって、将来への不安は変化への不安と同じことだ。
自我としての私たちは、これまでの世界を手放すことに抵抗する。
自我がコントロールできるものしか安心できないので、ほとんどの変化を脅威とみなすのだ。
しかしまさにこの点において、意識的に老いる人は、変化に対する不安を捨て去ることができる。
なぜなら、魂は自我と同じような意味では変化しないからだ。

 魂は自我と同じ方法で時間をはからない。
魂の時間は生まれ変わりを単位としている。
魂にとっては、一つの生まれ変わりの人生が一時間、もしくは一分のようなものだ。
自我が地球の時間枠で動くように、魂は魂の時間枠に存在する。
魂は終わりのない永遠の時間を基準として思考する。

 二つの時間の観点から常にものごとを見られるようになると、心が静まって、変化の荒波を受け入れ、同時に一息つく余裕が生まれる。
現状のままでどこも変わってほしくないという自我の執着心から解放されて、それぞれの瞬間に永遠に存在するものを知るようになると、変化に対して恐怖心を抱く代わりに好奇心を抱くようになる。

 こうした知恵をわかりやすく説明するために私がよく使う昔話がある。

~『中国の北の方に占い上手な老人が住んでいました。
さらに北には胡(こ)という異民族が住んでおり、国境には城塞がありました。
ある時、その老人の馬が北の胡の国の方角に逃げていってしまいました。
この辺の北の地方の馬は良い馬が多く、高く売れるので近所の人々は気の毒がって老人をなぐさめに行きました。
ところが老人は残念がっている様子もなく言いました。

「このことが幸福にならないとも限らないよ。」

そしてしばらく経ったある日、逃げ出した馬が胡の良い馬をたくさんつれて帰ってきました。
そこで近所の人たちがお祝いを言いに行くと、老人は首を振って言いました。

「このことが災いにならないとも限らないよ。」

しばらくすると、老人の息子がその馬から落ちて足の骨を折ってしまいました。
近所の人たちがかわいそうに思ってなぐさめに行くと、老人は平然と言いました。

「このことが幸福にならないとも限らないよ。」

1年が経ったころ胡の異民族たちが城塞に襲撃してきました。
城塞近くの若者はすべて戦いに行きました。
そして、何とか胡人から守ることができましたが、その多くはその戦争で死んでしまいました。
しかし、老人の息子は足を負傷していたので、戦いに行かずに済み、無事でした』~

                               IMG_2177_R   (人間万事塞翁が馬 ・じんかんばんじさいおうがうま)

 ここで言いたいことは、どんな変化が人生に訪れるか、それがどんな影響を与えるかは誰にもわからないということだ。
先の記事で書いたように、無常の法則によると、苦しみを減らしたいのであれば、未知のものを素直に受け止め、できるだけ穏やかに変化を乗り切れるようになる必要がある。

 年齢をかさねるにつれて、コントロールできないものが増え(コントロールを失うのは自我だ)、若いころにはやったことがないような方法で未知なるものに身をまかせざるをえなくなるという現実がある。
60才を過ぎて以来、私はこのことを日々学ばなければならなかった。
私のような、ある種の頑迷さを持った人間にとっては非常に難しいやり方で、これまでのようなコントロールをあきらめねばならなかった。
だが、もう元に戻せないような変化に直面した時、それ以外にどんな方法があるというのだろうか。

 ものごとは「こうあるべき」というイメージへの執着を減らして、あるがままの状態に抵抗しないことを学ぶのが知恵というものだ。
それができるのは、〈今ここで、この一瞬一瞬の中〉で、目の前の変化に素直に心を開いて反応することを通してだけだ。

 老化に伴う変化で困ることの一つは、自分はこうだと思っている自己像と
現実との落差だ。
心の中で自分をどんなに若者のように感じているとしても、私の肉体はことあるごとにそれを否定する。
時には、何年か前に私が本屋で転んで靭帯(じんたい)を傷つけた時のように、苦痛や恥を伴って否定される。
だがここでもまた、一見どうしようもない問題の中に深い学びの種が見つかる。
年をとるにつれて、自分のイメージと現実が矛盾するような“認識不一致”の瞬間を体験する機会が増える。
こうした不一致は気持ちの良いものではないが、自分がどの部分に執着を持っているか、そしてどの部分に意識を向けるべきかをはっきりと見せてくれる窓だ。

 肉体的な苦痛が体の異常を教えてくれるのと同じように、精神的な苦痛は
自分がもっとも意識を向けるべき個所を教えてくれる。
別の言葉でいえば、私たちが感じるイライラや怒りのアイデンティティを魂のレベルに変えなさいと教えてくれる。

さらに、自分がどの部分で変化に抵抗しているのか、どの領域で時間にこだわっているのか、どの分野で古い概念を乗り越えて成長する必要があるのかを教えてくれる。

 

 

2015-01-23 | Posted in 魂のめざめ