魂のめざめ

魂のめざめ-2

 

~過去を手放す~

未処理の問題を、今の観点でみるIMG_6599_R

過去を手放す作業はなかなか難しい。
特に、自分の中できちんと処理できていない問題がある場合はなおさらだ。
これは意識的な生き方の矛盾ともいえるが、過去を全面的に受け入れないかぎり過去を手放すことはできない。
または、ある聖者の言葉に従えば「自分が祝福していないものを変えることはできない」。

私が思い出の品を手放そうとした時に発見したように、それぞれの品をまずよく見て、それにまつわる思い出に浸(ひた)ってからでないと、捨てることができない。
そうしないと、思い出の品を手放せなかった。

過去の出来事の詳細を何度も心の中で反芻(はんすう)して感傷に浸るのと、現在の意識を使ってそれを“体験”することのあいだには大きな違いがある。
何年か前の話だが、京都の宇治を訪ねた時、私は宇治川の紅い橋の上から、川が思いのほか水量が多いことと、その早い流れに驚きながらも、川面を木の葉が流れていくのをしばらく眺めていた。
まるで運命の川に翻弄(ほんろう)されながら流れていくようにも見える木の葉に投影して、私の心に浮かぶ考え(思い出)を同じように眺める練習をしてみた。
そこには兄の死があり、兄を追うようにして亡くなった母の面影があり、経営していた会社の倒産時の想い出があり、それらのイメージが次から次へと流れてくる木の葉に重なって見えた。

その結果、いくつかのことを現在の目を通して見るようになった。
例えば、会社が倒産したことは、社長という役割をそれまでの私の自我から奪い去ることになった。
その時、こうした出来事を結びつける運命的な流れが見えてきて、無一文から会社を立ち上げ、倒産するまでの過程が理解できた。
社長という役割を失ったおかげで、自分の内なる声を信頼できるようになった。
自我の問題が魂の問題に変わったのだ。
経営者というアイデンティティを自我からはぎ取られたとき、わたしの独創性が開花した。
独創性は魂から生まれる。
役割に縛られている時には、真に自由な思考はできないことに気づいた。

過去を現在に迎え入れることによって、私たちの心は選択不在とでもいうような境地に入ることができる。
そこでは過去の体験が浮かんでは去っていく。
それにしがみつくこともなければ、よいとか悪いとか判断することもない。
これを実践すると、記憶は中和され、人生の背景の一部となる。
過去への執着心が消えて、人は以前よりも、自由に生きていることをイキイキと感じるようになる。

こうした”賢明なる距離“を置かないと、過去の辛い体験を思い出したり、”選ばなかった道“に対する深い後悔の念が起きたりした時、憤りや自己憐憫(じこれんびん)を感じてしまうようになるだろう。
言い換えると、過去の出来事に現在の光を当て、そうやって過去を現在に呼び入れる、ということだ。
意識の力を利用してそのような見方をすると、過去の〈くびき〉から解放され、古い執着心が離れていくのが分かる。

過去を現在の目で見直してみると、いかに自分の考えや感情が過去の時点で凍結していたかを発見する。
年を経るにつれて私たちは多くの面で変わったかもしれないが、過去の出来事の解釈やそれから受けた心理的な影響は当時のままだ。
これでは自分が分断されているような気がするのも不思議ではない。
私たちは過去の思い出や感情を魂の観点から再体験する必要がある。

私たちは自分が魂の観点から見ることができた瞬間をおぼえているものだ。
完全に目覚めていた瞬間の思い出はほかの思い出とはどこか違うという印象がある。
そうした思い出は私たちの本質を見せてくれる鏡の役割を果たす。

子供のころに垣間見た遥か彼方の雑木林に巨大な夕陽が落ちるのを見たとき、大地に溶ける紅い太陽が雑木林の彼方から無数の赤とんぼを生み出して、冷気を含んだ風と共に流れてきた。

私は田んぼの真ん中に立ちすくみながら、“こうして秋がやって来る”のだと、自分の中から声がしたことを今でも鮮やかに体感できる。

年をとってくると、私たちは幼児期の体験にもっと親近感を覚えるようになる。
昔を振り返る時間が増えて、私たちの心は大胆にも乳幼児期やその時期に受けた心の傷へと向かっていく。
これは心の大掃除をしたり、初期の心の傷を現在の知恵で見直したりする絶好のチャンスとなる。

そこで意識的に老いる(成熟する)方法には、過去を現在の目を通して見直し、現在の自分の本質に目覚めることが含まれる。
ある特定の体験が何度も心に浮かぶようであれば、瞑想するときに、それについて考えるようにするとよい。
瞑想の主眼として呼吸を使う代わりに、その思い出に関連する考えや感覚を追ってみる。
その時、自分が現在いる場所を忘れないように気をつけながらやる。
呼吸は、過去にのめり込まずに観察するための背景道具として使う。

失恋を例にとろう。
ほとんどの人は好きな人から拒絶された経験が一つか二つはあるだろう。
私にもとても辛い失恋の思い出がある。
だが、魂はそうした歴史的な出来事をどのように見るのだろうか。
自我は自分を“捨てられた者”“傷つけられた側”とみなし、失恋をそのように解釈するが、魂はそれとは逆にもっと大きな流れの中でとらえる。
辛い体験を魂の観点から振り返ると“失った”と思ったことが、実は幸せな結果につながったことが分かるかもしれない。
自我にとっての“失敗”の一つ一つが今日の自分を築き上げる力になっている。
甘ったるい言い方をするつもりはないが、私たちが学ぶ過程で踏む一歩一歩が、魂の観点からいえば、恵みである。
これは自我の容赦のない悪評や私たちが一生抱き続ける恨みなどといかに違うことか。

ブラジルの詩人マシャド・デ・アシスの美しい詩にこの点を完璧に歌った節がある。

『 昨夜、眠っているあいだに、私は夢を見た。 ああ、かの素晴らしい過ちよ。

  心の中に蜂の巣があって、 黄金の蜂たちが私の失敗から 白い巣と甘い蜂蜜を作っていた。 』

黄金の蜂は魂の力であり、体験を知恵に作り直している。

この過去の出来事に終止符を打つためのアプローチは、信じがたいかもしれないが、虐待体験にも応用できる。
私はここで虐待の苦しみを軽視するつもりは毛頭ない。
ただ、過去のそうした苦しみに現在の知恵の光を当てて、その体験の〈くびき〉から自由になることを進めているにすぎない。
自我の枠外に出ることができれば、これまでひとときも忘れられなかった虐待体験を自分と同一視しなくなり、自分の心の傷に固執しなくなる。
私たちは自分のアイデンティティの糸口として虐待や怒りにしがみついたり、過去を忘れないためにしがみついたりする傾向がある。
そして、メロドラマの主人公になって、自分の存在理由を証明したり意味づけをしたりするために過去の出来事を利用する。
人生ドラマの筋書きに魅了されてしまって、過去の牢獄に自分で自分を閉じ込めてしまう。

このことを自分の意識の観点から見るとどうだろう。
いつまでも恨みを抱いて相手を許そうとしない人は、過去の苦しみから逃れられない。
虐待行為がいったん終わってしまえば、虐待に対する執着が苦しみを生み出す。
言い換えると、自分の心が自分の苦しみを永続させるのだ。

残念ながら多くの人々がこのことに気づいていない。
過去に受けた不当な扱いの思い出に今でも煮えたぎる思いをし、それに多くの時間を費やしている不幸な人に私は何人も出会った。
自分が受けた不当な仕打ちを数え上げ、恨みの斧をとぐのがほとんど趣味のようになってしまっている。

私が出会ったある老婦人は、病院のベッドで残りの人生を終えようとしていた。
すでに亡くなったご主人から受けた屈辱の日々を思い返しては、「絶対に夫を許さない」と私に吐き捨てるように言った。
戦前の高等師範学校を卒業して長らく教職の身にあった老婦人は、夫が花街で罹患(りかん)した梅毒をうつされてしまった。
婿養子の夫は、老婦人の父が亡くなると毎晩のように遊び歩いて、受け継いだ資産を食いつぶしてしまった。
「絶対に許すもんですか。私が生きている限りは許さない」とその老婦人は痛風に痛む手を握り締めて、自分が正しいというふうに叫んだ。
私は老婦人の態度が無益で悲痛なことを思って胸が痛んだ。

老婦人の態度は自分自身をひどく傷つけている。
そんな病床での態度に耐えられず、娘さん三人が私に相談してきた。
やがて寿命が尽きようとする時になっても、毎日毎日、死んでしまった父への憎しみをベッドで叫びながら、人生が失敗に終わってしまったと嘆く母の姿を正視できないという。
老婦人は初めて病室に訪れた私に、小一時間あまりにわたって、自分がいかに屈辱的な人生を夫の身勝手な行為によってもたらせられたのかを縷々語った。
老婦人の話は極めて理路整然として彼女本来の知性の高さを感じさせるものであったが、理詰めで私に同意を求めながら自分自身を追い詰めていく姿が私の息まで詰めそうな勢いだ。

老婦人の話が一段落した頃合いに、私はある提案をした。
「娘さんから私の不思議な力の話を聞いていますか?それなら話は早い。私があなたの苦しみの思い出をすべて消してあげます。」
老婦人はちょっと怪訝な顔をしてから、やがて微笑んで「ぜひそうしてください」と私を見つめた。
「簡単に嫌な思い出は消えます。ほんの一瞬です。あなたが本当にそれを望むなら、ここでできます。ただ、ちょっと気がかりなことがあります」と私がそう言うと老婦人は「なにが気がかりなのかしら?」と訊ねた。
「気がかりなのは、ここであなたのご主人に対する恨みや思い出をすべて消してしまうと、あなたはこれから先、何にしがみついて生きるのでしょうか?」私の問い掛けを聞いて、彼女は一瞬目を宙に泳がせてから静かに私の目を見つめた。
やがて、大粒の涙を流しながら私に感謝の言葉を述べて、「夫も養子の身が辛かったんですね」とつぶやくようにそういった。

(自我を擬人化すれば)自我は苦痛を栄養にして生き続けようとする。
楽しかった思い出よりも、自分を傷つけた辛く悲しい思い出を幾度も蘇らせて、生きる糧にしようとはかる。
もうすぐ人生を終えようとする老婦人の心を過去の苦しみで満たしながら、亡夫への恨みの日々を屈辱とともに想起させて責めさいなみ、分泌される“苦痛”を食べている。

聡明な老婦人が気づいたように、人を責めることは自分自身を苛(さいな)むことにちがいなく、人を許すことが自分をありのままに受け入れて許すことにちがいない。

死んだ人とのあいだで未解決の問題がある場合は、慈悲と許しを自分の心にはぐくむようにして、その問題を手放す道を探すことだ。
嫌な思い出は身体や心を緊張させる。
そのときに、過去の問題が現在の心身をどのように拘束していくのか、その様子に注意を払おう。
それから一瞬一瞬、少しずつ、心を和らげる努力をする。
起きたことを否定する必要はないし、それをどんな形であれ、合理化したり正当化したりする必要はない。
また現在の気持ちを否定する必要もない。
むしろここでの目的は、それを全面的に認めることによって、苦痛を和らげることにある。

全面的に注意を払うようになると、恨みはちょっとでも抵抗があると勢いを増すことを発見する。
相手を許すことができないとしたら、たぶん、自分がそうしたくないからだ。
その場合は、人を許す儀式をやってみるのもよいだろう。
自分に不当な仕打ちをした人に手紙を書いたり、写真を使って瞑想したり、“敵”が苦しみと無知に悩む魂だと想像してみたりするのだ。

〈今この瞬間〉に深く意識を向ける力を磨くに従って、この瞬間のパワーのほうが過去の思い出よりも強くなる。
自分の意識が自我の外に出て、はるかに広大な空間に移動するにつれて、今この瞬間はますます強烈に豊かに満ち足りたものになる。

まだ生きている人とのあいだに未解決の問題がある場合は、その人と直接会うことをぜひすすめる。
私はこれまで多くの人との関係を改善してきたが、それはただその人たちとじっと向き合ってすわり、二人のあいだに何か新しいものが生まれる可能性に心を開いたからだ。
攻撃的になったり「どうしても話さなければならないことがあるんだ」などと言って最後通牒(さいごつうちょう)を突き付けたりする必要はない。
ただ一緒にいることによって、その人がどんな人だったか、あなたにどんなことをしたかという思い出やイメージを含めた過去の関係が現在の瞬間にもたらされる。

過去に現在を触れさせることによって、過去の不満や恨みが少しずつ解け始める。
そうした和解の結果、どれだけ身も心も軽くなるかに人は驚く。
それは逆にいえば、不満や恨みを抱き続けるためにそれだけのエネルギーを使っていたということだ。

 

2015-01-20 | Posted in 魂のめざめ