魂のめざめ

魂のめざめ-11(最終回)

~ 私たちの本質 ~

身体に快適なものはすべてそろっていますね。それで幸せですか?

先進国に共通する物質主義が、私たちが気づかないうちに社会を席巻し、私たちの内側の領域まで浸食しようとしている。
ここでいう物質主義とは、「現実とは五感で感じることができるものに限られる」という概念を指す。
目で見たり匂いをかいだり舌で味わったり耳で聞いたり身体で触れたり実験室で計測したりできないものは存在せず、空想にすぎないと断定するのが物質主義である。

 非物質的現象は宗教の領域では認められているが、日常生活の現実は魂の次元からはほとんど切り離されている。
私たちは科学を最終結論として使い、何が現実で何が非現実かの判断基準としている。
精神性の高い文化では、知性を超えた次元に存在する現象を知性が評価できないことは常識だが、私たちの文化では五感でとらえられない現実が存在する可能性を無視する傾向にある。

科学の目を通してのみ現実を求めることは、闇夜に鍵をなくした酔っ払いが、明るい街灯のまわりしか見えないと言ってそこしか探さないのと同じことだ。

 この宇宙は物質とエネルギーからなると科学は教える。
チベット仏教の僧ならばそれに疑問を呈するだろう。
彼らは、この宇宙は物質とエネルギーと意識から成るという。
自分やまわりの人間たちの意識が存在することを毎日体験していながら、どうしてこれを否定することができるだろうか。
肉体、つまり物質が機能しなくなったからといって、意識までなくなったと
どうして結論できるのか。
物質やエネルギーは消滅しない。
お互いに形を変えるだけだ。
意識も消滅しないことを私は知っている。

 人が見たり聞いたり味わったり触れたりできないものは存在しないという考え方は、私たちの生活に大きな影響を与えているが、なかでも一番重要なのは、誕生から成人、老化、死へと続く人生のサイクルに関することだ。
五感のみを信じて生きている人にとっては、死は当然ながら旅路の最終地点となる。
肉体の死後は何も存在しないと彼らは言う。
信仰をもっている人は、この世とは別の次元が存在するかもしれないと思っている。
現在の行為が死後に影響を与える可能性は認めているが、死後の世界の存在を確信しているわけではなく、この世の生活をどう見るかという点で、それから直接的に影響を受けることはない。

 こうした物質主義的な考え方によると、私たちは個々別々の有限の存在で、刻々と変化する事象の世界で消滅の時を待ちながら生きていることになる。

 そんなわけで、この社会において死やその友人である病気と老化が極度に恐れられ誤解されてきたのもうなずける。
けれどもこうした考え方がいかに私たちに影響を与えてきたかに気づいて心を開きはじめると、既成の枠からはずれた思考が可能になり、老化現象を見る目がまったく変わってくる。

 インドという国は現在でも多くの問題を抱えている。
公衆衛生や市民権、カースト制度、経済問題、パキスタンとの領土問題など、きりがない。
確かに問題の多い国ではあるが、それにもかかわらず、インドには古来の精神文化が脈々と流れており、老化や死に関する洞察から、私たちは多くを学ぶことができる。

 ヒンズー教では一人の人間の一生よりも大きな視点から人生をとらえる。
インド文化では、魂というものが死後も生き続けるという考えが一般に受け入れられている。
魂は、神であり覚醒意識であるアートマンに還ることを切望すると信じられている。
宗教や宗派が異なっていても、インド人にとって、人間の一生のこうした非物質的で非肉体的な側面は肉体や精神と同じくらい現実味のあるものだ。
したがって死は旅の最終地点ではなく移行地点に過ぎない。
肉体をもった人生は、魂が自己実現に向かう旅における一つの段階に過ぎない。

 こうした考え方はもちろん両刃の剣となって、この世のことに無関心になる傾向を生む。
インド社会の病理を一瞥しただけでも、死後の世界を重視しすぎて現世や生存を軽視することがいかに危険かを教えられる。
しかしつねに魂の次元を意識して生きることは、私たちの社会の人びとがむなしく追い求める二つのもの、“今すべてを手に入れること”と、“若さを含めた過去への執着”から生じるストレスを減らしてくれる。
永続するものを重視するので、自然の流れに逆らう苦しみから解放される。
しかもインドの老人にとって人生目標は、ほっそりした身体や高額の年金などではなく、神が目標なので、波乱の壮年期の後に平和を享受できる。
これは、この国やアメリカなどの先進国ではあまり目にしない。

 多くの人は自分が持っているものを失うのではないかと心配しながら生きている。
老年期は物質的なものから誰も奪うことのできないものに方向転換するチャンスでもある。
私たちの持つ知恵とまわりの人たちへの愛情がそれだ。
しかし精神的な基盤がない文化ではその機会が失われている。
インド人にとって精神の自由を象徴する老年期が、多くの日本人やアメリカ人にとっては、喪失の時期となっている。

 物質主義的な社会では、肉体の若さと長寿が最も重要になる。
医療技術が発達したおかげで、二十世紀だけでも平均寿命が二十五年も延びた。
今世紀でどのくらい延びるかは想像もつかない。
私たちが肉体でしかないと信じるなら、肉体をできるだけ生きながらえさせるのが最終目標となり理想となる。

 神話の時代よりも人びとが長生きするようになると、現代の老人たちは自分たちの生き方を語ってくれる神話を見つけられない。
現実的にも、比喩的にも、社会の中で自分の居場所がなくなる。
それでも肉体をできるだけ長く生かしておこうとする執拗な熱意が存在する。
これで思い出したのは昔テレビで見た、世界最年長のフランス人女性の言葉だ。
誕生日に何を将来期待するかと訊かれて、「ごく短い将来」と答えていた。

 こうしたことはいまに始まったことではない。
古くから多くの文化圏で人びとは若さの泉を発見することを夢想し、不老長寿の秘薬を求めた。
私は長寿そのものを批判しているのではない。

 長寿は精神修養をする素晴らしいチャンスだ。
魂が進化するために必要な資質を養うのに、長寿の人生は最高のものだ。
しかし老化に関する自分の態度を吟味する場合に、二つのことが必要だ。
一つは、自分のことを脳に支配された、精神をもつ肉体にすぎないと信じているかどうかという基本的な問題であり、
もう一つは、「これで十分満足だ!ということがありえるのか」と、自分に問うことだ。

 主に肉体面と心理面に目を向けている社会では、なんでも多いほうがよいように思える。
より多くの時間、より健康な体、より多くの経験、より多くの所有物。
何でも多いほうが本当によいのか、これで十分だという時点があるのだとしたら、それはいつなのかを検討してみる必要がある。

存在の三段階
 自我の領域には、ふだん私たちが心理的にも肉体的にも”自分“として体験するもののすべてが含まれる。
肉体、個性、人気、評判、所有物、感情、さらにこの世で生きていくのに必要な考え方などである。

 ”自我“とは、哲学者デカルトの有名な言葉を借りれば、〈我思う。故にわれあり〉の”我“から成り、ある年齢の肉体と精神を指し、独自の好みや欲望や意見をもっている。
自我が外を眺めるとき、そこに見えるのは他の自我だけであり、五感に根差した個々別々の生き物である。
科学で説明のつくことだけを操作システムとして使い、脳というコンピューターがその唯一の伝達方法である。

 しかし、 “自我”は大きな覚醒意識の海原に浮かぶちっぽけな存在に過ぎない。
“自我”を超えたところに“魂”がある。
“魂”は学ぶためにここにおり、老化を含むあらゆる自然の変化は格好の学習材料だ。
しかし何のために私たちはこうした学習をしているのだろうか。
もちろん将来のためだ。
現在と未来に安らかな心、平安を得るためだ。

 私がこれから言おうとすることは誰も聞きたがらないことかもしれないが、敢えてここで率直に言おう。
“魂”は死を超えて生き、人は生まれ変わる。
私はそれを信じているのではなく、知っている。
私たちが学ぶのは、やがていつかブッダ(覚者)になるためであり、“大いなる意識(宇宙)”と一つになるためである。
六十年か八十年そこら地上に生きて、最後は消滅してしまうだけというのは腑に落ちない。
もしそうなら、この宇宙に存在する物でこれほど非効率なものはほかにない。
私たちが生きているのは学ぶためである。
そうでなければ、私たちの苦難や苦悩はまったく無意味である。
自我にとっては、老年期までに私たちが達した社会的地位や役割が人生の成就になるが、“魂”にとっては学んだことが成就になる。

 自分というイメージを拡大して“魂”までを含むようにすると、意識のあり方に明らかな変化が起こる。
自己中心的な小さな自分から解放されて、もっと大きな空間の中で自分をとらえられる。
“魂”のレベルに立つと、外側から “自我”を眺めることができる。
そうなると、人は自分の肉体や精神をまったく予期しなかった新しい観点から見るようになる。
それはまるで“自己”を押さえていたふたがやっと取れて、初めて戸外に出て、まわりの景色を眺め、本当の自分(魂から見た自分)と肉体や精神のレベルで味わう苦悩との間に適切な距離を置くことができた、そんな感じだ。
こうした修練を積み重ねていくと、“自分が魂だ”と自覚できて、人は驚くほどの癒しを体験する。

 けれども波が海そのものではないのと同じように、“魂”は意識のすべてではない。
“魂”を超えたレベルには、“存在の基礎”そのものがあり、私はそれを“覚醒意識”と呼んでいる。

 “覚醒意識”は自我の構造の中に閉じ込められている。
“魂”と“自我”は“覚醒意識”の内側に収められているが、“覚醒意識”そのものには外側に境界線がなく、永遠かつ無限である。
あらゆるものを含むこの領域を描写する言葉はさまざまだ。
神、形なきもの、無名なるもの、大いなるものなど、数多くあるが、私はそれを“大いなる意識”と呼んでいる。

(心理学者のユングの言う元型の自己〈セルフ・意識と無意識を含めた全体の中心〉の概念と重なるのだが、ここではそのことを解説しない。また、このブログ内で私が使用している自己という言葉は、ユング心理学のいう自己とは違っているので誤解しないように願いたい。)

 “自我”と“魂”が“覚醒意識”からは切っても切り離せない部分であるのと同じように、“覚醒意識”は私たちの本質そのものである。

 しかし、“自我にとって自己から”覚醒意識“へ飛ぶには距離が遠すぎる。
そのような体験の合一は、詩人たちが歌った神秘体験であり、そこでは孤立した自己は捨て去られ、神の中に溶け込んで私たちの本質へと戻っていく。

 老化や死を体験するのは“自我”だ。
“自我”は永続しないが、“自我”にとってはおのれの死滅を想像することができない。
“自我”が自分は死にかけていると思う時、自分とは肉体と“魂”と“覚醒意識”とを合わせた総合体だと誤解している。
そこで神との合一への長い道のりを歩み始めた人は、ますます死の恐怖に駆られて医者から医者へと駆けずり回る。

 私が言う“大いなる意識=覚醒意識”は、時間と概念を超えたところにある。
これは“存在の基礎・マトリックス(母体)”だ。
“魂”は、小型のビックバンのように、“覚醒意識”から爆発して飛び出す。
“魂”と“覚醒意識”の関係は子供と母親との関係にも似ていて、魂は覚醒意識の透明な光のもとへ還っていきたいと望む。
成長して“神・大いなる存在・覚醒意識”のもとへ還ることが“魂”の旅路といえる。
チベット仏教のゾクチェン修練の中に“覚醒意識”レベルに入るための素晴らしい訓練がある。
空を眺める業(ぎょう)だ。
戸外であおむけに寝そべって空を見上げ、通り過ぎる雲を眺める。
眺めているうちに、まるで頭上の空が自分の覚醒意識の空を映し出しているかのような気になる。
しばらく続けていると、自分が空そのものになり、雲は自分の体や心の中をよぎる現象―欲望、怖れ、イメージ、音、匂いなどすべて­一体になる。
空は通り過ぎる雲には注意を向けない。
雲が流れるにまかせて、ただ大きくそこにある。

 人生に起きてくる苦しみを癒しの道としてとらえ直すために必要なことは、自分はこの肉体と精神以上のものだと知ることだけだ。
“自我”は自分というもののほんの一部に過ぎないと気づくと、人は最初ショックを受ける。
しかし、日常生活の中で魂の意識を体験するようになると、老化に伴う苦痛や不安、喪失感、怒りなどの不快な精神状態が大きく軽減することに気づく。
魂が目覚めてくると、自分の肉体や精神状態から一歩下がって、自分の本質を知恵と壮大な空間の中で見ることができるようになる。
こうした訓練には忍耐心と謙虚な気持ちが必要である。

 私はかれこれ三十年以上もさまざまな修養をおりにふれて実践してきたが、毎日のように古い思考パターンについ後戻りしてしまう。
それでも、より大きな自己の可能性に目を向けていようとする態度があれば、人生に起きてくる困難や苦しみのプロセスを“魂”の成長の機会に変えることができる。

最後に魂に気づくことの秘訣を一つ、公開しておこう。
それは、美しさにふれること。
特別の絵や音楽を鑑賞することもわるくはないが、ふだんの生活の場面に不意に現れる小さな光のようなもの、そこに見た“在るように在るもの”に耳を澄ませることだ。
そうすれば、“あるようにあれば、ものみな美しい”ことに気づくだろう。a1750_000034

2015-03-01 | Posted in 魂のめざめ