魂のめざめ

魂のめざめー8

~ 死の瞬間 ~

 死の瞬間は、死にゆく人と死後の世界のあいだにある“ベール”だ。
私は一時的に自我の構造が消滅する体外離脱体験を今までに数多く繰り返してきたが、死の体験が少しでもそれに似たところがあるとすると、これまで私たちが現実を生きるために使ってきた観念上の地図が死の瞬間に消滅すると思って間違いないだろう。

この消滅は最初ゆっくりと進み、やがて速度を増して、最終的に消滅したら
障壁を突き抜けて魂の次元に入る。

 当然ながら、死ぬ瞬間をできるだけ明瞭な意識のままで迎えたいと人は望む。
死ぬ時には、愛と喜びと感謝の気持ちに満たされて安心して穏やかに死にたいと願う。

 臨死体験をした人の多くが、その時に感じたリアルな気持ちをはっきりと覚えていると報告している。
死後、光のあるほうに進んでいくと、そこにはすでに亡くなった家族や親戚と再会して、喜びをわかちあう体験をする。

 私が初めて16歳の時に起きた体外離脱体験は、私を恐怖と混乱の渦に投げ入れた。
自分の身体を斜め下に見ながら、しばらくは意識体のまま室内に漂い、やがて部屋の天井と家の屋根をすり抜けて一気に夜空を上昇した。
眼下に街路灯や旅館のネオンサインを見ながら、すさまじい速さで上昇していきながら、私は今、死につつあるのだと思った。
漆黒の闇に放たれた風船のように、あてどなく、孤独だった。

 その後、みくら会でお話ししてきたように、私は体外離脱体験を重ね、(いまはもうしないが)、意識的に体外離脱することができるようになった。
 それらの体験を通して、私の意識は次元が変わっても持ちこたえることが分かった。
私は生き続けるのだ。
結果がどうなるか分からなくても、何が起きようとも、どんなに多くの誤った概念が粉砕され、どんなに多くの恐ろしいことが起ころうとも、なにもつかまるものがなくても、すべてに身をまかせていればよいのだ、と知った。
そして私は生き続けるのだということが分かった。
私は体外離脱を何度も繰り返しながら、このことを学び、この事実をくりかえし確認することができた。
恍惚感を味わうと、形に対する執着がなくなる。
死が怖い理由の一つは、自我が“形”に執着することにある。

 そうした体験や瞑想を通して、魂は肉体に存在しないし、肉体のなかだけに限られてもいないことを体験した。
肉体が死んでも意識は生き続けることを私は知っている。
これは単に私が頭で信じていることではなく、体験して学んだことだ。
 死んだからといって、その瞬間に別人に変身するわけではない。ありのままの自分として死ぬのであって、それ以前よりも賢くなるわけでもなければ無知になるわけでもない。

私たちはそれぞれ自分がしたことの総和を抱えて、死の瞬間にのぞむ。
だからこそ、真理に目覚めて、身の回りの問題を片付け、後顧の憂いなく最後の目を閉じられる人間になるために、一刻も早く死への準備を始める必要がある。

 自分がいつ死ぬかを知っている人は誰もいないので、一瞬一瞬、目覚めた意識で生きるように心がけたい。
瞑想しながら自分の呼吸を観察し、その呼吸がいつ止まるかもしれない、はかないものであることを自覚することから始める。
その自覚は私たちを恐れさせるというより、感覚を鋭敏にし、周りに注意を払うようにさせてくれる。

 死の瞬間を怖がらず、素直に穏やかな死を迎えたいと思うなら、偉大な先人たちがどのように死と向き合ったかを知ることが役に立つ。
辞世の句や、臨終に際して残したことばをあげておこう。

うらを見せ 表を見せて 散るもみじ       ~良寛

見舞いに来た恩師が、「冬休みにまた上京しますから、そのときまた参りましょう」と声をかけると、「その時分には、私は何になっていましょう、石にでもなっていましょうか」                        ~樋口一葉

束縛があるからこそ私は飛べるのだ。
悲しみがあるからこそ高く舞い上がれるのだ。
逆境があるからこそ私は走れるのだ。
涙があるからこそ私は前に進めるのだ。  ~マハトマ・ガンジー 〔遺言詩〕

 今日私たちの心を悩ますものがあれば、それは死の床にあっても私たちを悩ますだろう。
死ぬのはたやすいことではないので、あまり苦しまずに死を迎えるためにもできるだけ心を平静に保ち、思考力を失わないでおきたいものだ。
『人間らしい死に方』(河出書房)という本の中で著者シャーウイン・ヌーランドは、死の瞬間に訪れる肉体的および心理的苦痛を説明している。

 血液の流れが止まり、心臓の筋肉が飢餓状態に陥り(自然のリズムが狂い、心室の繊維が攣縮(れんしゅく)してはげしくもがく)、筋肉への酸素供給が不足し、内臓の機能が停止し、生命維持機構が破壊される。
それと同時に、胸部が締め付けられ、まるで万力にはさまれたような強度の圧迫感があり、冷や汗、呼吸困難、ときに嘔吐などを体験し、しばしば耐え難い苦痛を感じる。

 そこで問題は、穏やかな尊厳死を迎えたいとしたら、こうした苦痛に満ちた状況の中でどのような意識でいればよいのか、ということだ。

 答えは、魂の意識にいることだ。
魂の意識にいることができれば、それだけ、肉体の死から一歩離れて、大いなる意識の視点からこの移行を観察することができる。
これは非常に難しいことだが、覚醒者たちの証言が示しているように、不可能なことではない。
どちらにしても、それが目指す方向である。
死の瞬間に魂の意識に入ることができればできるほど、その度合いに応じて、死ぬ時の動揺を静めることができる。

 死のプロセスを助けてくれる人が多ければ多いほどよい。
昔なら、赤ん坊が生まれるときに助産婦を雇ったように、人が死ぬのを手伝うための資質や経験をもった人間に立ち会ってもらうことが賢明だ。

 私たちの社会では、ほとんどの人が病院のベッドの上で真夜中に独りで死んでいくが、このことは極めて悲劇的なことだ。
これを例えれば、真夜中に明かりも地図もコンパスも持たせないで一艘のボートを海に押し出すのとあまり変わらない。
おまけに、たった独りの乗組員には何のアドバイスも与えないままだ。

 こんなやり方は、古い精神文化を持つ国のやり方といかに異なることか。
たとえば、チベットの伝統では、僧侶や尼僧は人が死んでいく過程で道案内ができるように訓練されている。
死につつある人の喉の渇きや体の冷たさ、重い感覚や呼吸がないことなどに対応し、死につつある人がこうした現象に執着しないように導くための訓練を受けている。
そのために、次のように語りかける。

「土の元素が肉体を離れるにつれ、体が重く感じます。
水の元素が肉体を離れるにつれ、のどの渇きを感じるでしょう。
火の元素が離れるにつれて、体が冷たく感じます。
空気の元素が離れるにつれ、吐く息が吸う息よりも長くなります。
そうした兆候が今起きています。細かいことにこだわらないように。
こうした現象に執着しないように。どれも自然なことです。
あなたの意識を解放してあげましょう」

 私たちはこうした現象に抵抗しないで明瞭な意識を持って立ち向かえる人間に変わることができる。
人生最後のこの状況はこれまでの人生体験と比べて強烈さの点で違っていても、
準備は同じである。
つまり、考えや感覚が一つ生まれるごとに素直にやさしい心で接し、反感をもったりしてその体験に執着することをせず、常に明瞭な意識に戻ることを心がけるのだ。
一瞬一瞬を最高に生きる生き方が、同時に、死ぬための最高の準備になるというのはありがたい。

 また、自分がいずれ死ぬことをきちんと認めることが、現在を真に楽しく生きるための前提条件だと知って、これもありがたいと思う。

 死とは神秘であり、自己変容の機会なのだと常日頃自覚して生きていくと、生きている瞬間が豊かで生きる力に満ちたものとなるが、死を否定して生きると、豊かさも生きる力も失われる。

ここでわたしの大好きな詩を引用しよう。

 若さを保つことや善をなすことはやさしい 
 すべての卑劣なことから遠ざかっていることも
 だが心臓の鼓動が衰えてもなお微笑むこと それは学ばれなくてはならない

 それができる人は老いてはいない
 彼はなお明るく燃える炎の中に立ち
 その拳の力で世界の両極を曲げて
 折り重ねることができる

 死があそこに待っているのが見えるから
 立ち止まったままでままでいるのはよそう
 私たちは死に向かって歩いて行こう
 私たちは死を追い払おう

 死は特定の場所にいいるものではない
 死はあらゆる小道に立っている
 私たちが生を見捨てるやいなや
 死は君の中にも私の中にも入り込む

     ヘルマン・ヘッセ「人は成熟するに連れて若くなる」(岡田朝雄・訳)より

死とは実は、さなぎが蝶に変容するような現象であり、窮屈な靴を脱ぐようなものだ。
肉体という衣を纏った“魂”にとって、死こそ次なるステップへのプロセスに違いない。

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2015-02-10 | Posted in 魂のめざめ