金沢妄想奇譚

金沢妄想奇譚-9

どこまでが夢なのか、とにかく歩く

 気がついたら桜が散っていた。DSC_0525-600x401

去年はトボトボと近くの川沿いの桜道を歩いていたように思う。

一昨年は山桜を見ようと車で山に向かったのだが、まだ早すぎてがっかりして帰った。

十数年前に、思いもかけずに京都の鴨川沿いで車中から夜桜を見たとき、運転手さんが

「お客さん、ラッキーですねえ。いつもなら季節外れで散っている頃なのに、

ことしは冷え込んで今頃になりましたわ」と嬉しそうに言った。

植物園あたりでタクシーを止めてもらい、夜桜の路を川面の冷気を含んだ風を

頬に受けながらトボトボと歩いた。

四十代の後半だった。

いったい、わたしは、どこに行くのか、なにを探しているのか、そう思った刹那に

老いた桜木が枝を震わせて笑った。

「何度生まれてきてもお前さまは阿呆のままだねえ~」

老木は風に揺られながらシワだらけの樹皮を軋ませるように呆れ声でそう言った。

どこまでが道なのか、川なのか。

「西行法師は衆道の道行じゃったが、お前さまは独り道だな」と老木。

「願わくは花のもとにて春死なむその如月の望月の頃」と法師の和歌を私が口ずさむと

老木はまた笑った。

道を進んだ時、運転手さんの呼び声が聞こえた。

 

“ねぇわたしいつ死ぬの”桜咲くたび聞く女

 永観堂の板廊下を歩き、燃える炎のような紅葉の庭を見やりながら

私は何かに怯えていた。

晩秋の冷風に侏儒のように身を縮めて渡り廊下の端をそろりと歩き、

こころを震わせていた。

東大寺別当を辞して、永観が下賜された仏像の“見返り阿弥陀”を背負って京に戻り、

仏像を須弥壇に安置した時、奥深いところから声がしたという。

“永観、おそし”振り返りながら阿弥陀仏はそう声をかけたのだ。

永観堂を訪ねる前に、八坂神社に参詣したのだが、参拝する人混みをかき分けて

わたしに向けて語りかける女の声がした。

「ねぇわたしいつ死ぬの」

その声に振り返って見ても、誰もいない。

よもや、永観堂の御本尊様のいたずらかと訝ったが、阿弥陀様が

あのような呼びかけをするはずがないと思い直した。

昔の永観堂は静謐のなかにひっそりと在ったのだが、近頃では観光地化がすすんで

八坂神社に引けをとらないほど数多の人たちであふれている。

永観堂に着いて足早に回廊を進んでいくうちに、わたしの方向感覚が狂ったのか、

それとも上り廊下を間違ってしまったのか、こころに私を急き立てる声がしきりに

聞こえてきた。

晩秋の紅葉を透き通す光が私の行く手を阻むかのように立ちはだかったり、

チロチロと陽炎のように襖に燃え映りながら私を本堂へと導いた。

ようやく本堂にたどり着き息を殺して“見返り阿弥陀様”の前に進むと、

そこには見知らぬ女が座り込みながら独り激しく泣いているではないか。

見返り阿弥陀像の横に、「何を悩んでいるのか、おまえはもう救われてある」

と書かれた木札があった。

女がなぜそんなに激しく泣いているのか、そのわけは知らないが、たった今、

大きな力に女が救われたに違いないとそう思った。

首を左に傾けて、見つめる阿弥陀仏の透明な眼差しに、

私も女と一緒に救われたような気がした。

2015-04-20 | Posted in 金沢妄想奇譚