金沢妄想奇譚

金沢妄想奇譚-8

「分け入つても分け入つても青い山」~ 種田山頭火

本日からブログを再開することにした。

わたしのような風来坊でも身辺が忙しくなるときがあったのだ。a1130_000493

もしや、ブログの拙文を心待ちにしてくれている読者がいないとも限らない。

「みくら音楽工房」のホームページに間借りしているからには、家賃に相当する一文を書いておきたい。

そうしないと、なんだか心が疼くのだ。

冒頭に掲げた放浪の俳諧師、種田山頭火(たねださんとうか)は一昔前に有名になったので、

ご存じの方も多いかも知れない。

ここで、通常の俳句の形式を大きく逸脱した山頭火の「自由律俳句(じゆうりつはいく)」について

確かめておこう。

 

自由律俳句(じゆうりつはいく)とは、五七五の定型俳句に対し、定型に縛られずに作られる俳句を言う。

季題(季語)にとらわれず、感情の自由な律動(内在律・自然律などとも言われる)を表現することに

重きが置かれる。

文語や「や」「かな」「けり」などの切れ字を用いず、口語で作られることが多いのも特徴である。

特に短い作品については短律とも言う。

以下に代表的な自由律俳句をあげておこう。

 

  曳かれる牛が辻でずつと見廻した秋空だ(河東碧梧桐)

  咳をしても一人(尾崎放哉)

  いれものがない両手でうける(同)

  まっすぐな道でさみしい(種田山頭火)

  分け入つても分け入つても青い山(同)

  うごけば、寒い(橋本夢道)

  ずぶぬれて犬ころ(住宅顕信)

  若さとはこんな淋しい春なのか(同)

  夜が淋しくて誰かが笑いはじめた(同)

 

ここで、自由律俳句を取り上げた本当の理由を明かそう。

それは、今話題のお笑い芸人ピース又吉直樹の小説「火花」(文藝春秋刊)を読んで、のことだ。

又吉直樹がコラムニストのせきしろと組んで自由律俳句の著書「カキフライが無いなら来なかった」、

「まさかジープで来るとは」(幻冬舎刊)の二冊で、自由律俳句と彼らが撮った写真がコラボし、

二人の世界観満載のエッセーへと連なっていくのを読んで、冒頭の放浪の俳人、種田山頭火を思い出した。

 

「弱火にしたいのに消えた」(せきしろ)

「急に番地が飛んだぞ」(又吉直樹)

「回文じゃなかった」(せきしろ)

「起きているのに寝息」(又吉直樹)

「自分の分は無いだろう土産(みやげ)に怯(おび)える」(又吉直樹)

「爪楊枝(つまようじ)の容器を倒して乱雑に戻す」(せきしろ)

「初めて発音するデザートを頼む」(又吉直樹)

見えないものを短い言葉で照射するその鋭い感覚に驚く。

短い断片のような言葉の背後に隠された物語を予感させる闇が、あるいは人の感性のきらめきが

スパークして貫く。

日常生活の既視感に染まったままでは見えない世界が、鋭く立ち現れて、わたしを幻惑してやまない。

又吉直樹の小説「火花」の中でも自由律俳句が効果的に使われている。

ここでは小説について敢えて感想を述べないが、それはきわめて優れた彼の才能に対するわたしなりの

礼儀であり、このブログを読んでいる方に、ぜひ書店に行って本を買って読んでいただきたいからだ。

わたしは、これまでにゆうに一万冊以上の本を読んできたが、まだ荒削りな表現はあっても「火花」は、

すぐれた小説であり、太宰治をすり抜けた才能が又吉直樹には確かにあると評価している。

「火花」を「花火」と読みまちがえた、それもまた(又)よし(吉)」 (恵蔵)

2015-04-07 | Posted in 金沢妄想奇譚